「新潟県民歌」の実作者説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 14:22 UTC 版)
「渋田黎明花」の記事における「「新潟県民歌」の実作者説」の解説
1948年(昭和23年)に日本国憲法公布を記念して制定された「新潟県民歌」の作詞者は、応募者の名義上では古賀に隣接する新宮町の高下 玉衛(たかした たまえ、1913年 - 2011年)とされているが、高下は生前に「ビルマから当時引き上げて来たばかりで、とても作詞どころではなかった」と述べている。新潟県庁の職員が高下本人に聞き取りを行った際には「親類の人に、校歌等を作る人がいて」、その親類が高下の名義で応募したらしいと証言した。 この「親類の人」の正体については長らく公にされて来なかったが、県職員の聞き取りから20年近くを経た2020年(令和2年)になり、福岡県に住む高下と渋田の遺族が新潟日報の取材に応じたことで両者が相婿(妻同士が実の姉妹)の関係であり、半世紀以上も謎とされて来た「新潟県民歌」の実作者が渋田である可能性が高いと報じられた。その傍証として「新潟県民歌」の半年前に愛媛県新居浜市が市制10周年を記念して制定した「新居浜市歌」は作詞者の名義が「花田 豊」とされているが、同曲の歌詞は「新潟県民歌」と酷似しており、新居浜市立別子銅山記念図書館が所蔵する楽譜に記載された住所が古賀町で一致することなどから渋田のペンネームの一つである可能性が高いと見られている。 渋田自身と新潟県の地縁は不明とされて来たが、1939年(昭和14年)に新潟日報の前身に当たる新潟新聞が懸賞公募した「大陸開拓の歌」が入選した時のインタビューでは上述の通り幼少の一時期を新潟で過ごしたことを明かしている。また、東京で長谷川伸の門下だった当時には同県の北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)出身で同じく長谷川門下の山岡荘八と無名時代から親交があった。
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