「己が音」の恋歌
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關白左大臣家百首歌よみ侍りけるに おのかねにつらきわかれはありとたに おもひもしらてとりやなくらむ (己が音につらき別れはありとだに 思いも知らで鳥や鳴くらん) — 『新勅撰和歌集』 巻第十三 恋歌三 中宮少将 暁を知らせる鶏鳴(けいめい)はまた、同衾する男女の一夜の契りの終りをも告げる。名残惜しい朝の別れ、そのつらい刻限を自分の鳴き声が告げていることなど、あの鶏は知るよしもないのだろう。どこか愚痴っぽいようでさばけてもおり、その感性はけだるいようで冷めてもいる。感情のほとばしりを「つらき」の一語で済ませておきながら、この淡々とした歌は少将が恋人と懇ろな一夜を過ごしていたであろうことを示唆して止まない。そこにコケコッコーが聞こえ、もう朝かと我に還る。そんな時にふと人が思うこと、それは高尚な恋愛の哲学でも低俗な愛欲の発露でもなく、実際にはやはりこうした何でもないようなことだろう。この一見恋歌とは無縁に思える鶏鳴についての漠然とした思いを述べることで、少将はこの一首に普遍の現実味を付加させているともに、それによって婉曲に表現した恋人との関係には得も言われぬ思慕の情念を醸し出すことにも成功している。歌自体は平明で、その趣向はどこまでも枯淡だが、それ故にこの歌は鑑賞する者の想像力を掻き立てて止まないのである。 この一首は、後堀河天皇の関白だった九条教実が企画した『関白左大臣家百首』に少将が恋歌として詠進したものだったが、これを見た藤原定家は甚く感じるところがあってこれを賞賛した。その趣向が自身の晩年の趣向と合致したのだろう、当時後堀河天皇の下命により撰者として『新勅撰和歌集』の編纂にあたっていた定家は、この歌をすぐにそれに選入している。
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