「人生最高の時」から一転して転落人生となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/06 18:09 UTC 版)
「ビル・パイアーズ」の記事における「「人生最高の時」から一転して転落人生となる」の解説
1967年の秋、パイアーズ騎手に言わせると「人生最高のとき」を迎えることになるが、その4日後に逮捕され、投獄されることになる。 この年の凱旋門賞には、抜きん出た実績馬がいなかった。逆に言えばどの馬にも勝てるチャンスがあるということで、30頭もの出走馬が集まった。イギリスから遠征してきた中で一番手は*リボッコ(Ribocco)で、セントレジャーステークスとアイルランドダービーに勝っているが、イギリスダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは上位には入ったものの、はっきりと負けていた。その次はサルヴォ(Salvo)だが、サルヴォはアメリカ産馬で、イギリスクラシックには勝っておらず、ドイツのバーデン大賞優勝というのが過去の最良の勝鞍だった。地元フランスの1番手は3歳馬のロワダゴベール(Roi Dagobert)だが、この馬は2歳のときに大手術をしてクラシック登録がなく、3歳になってもリュパン賞を勝ったところで怪我をしてリタイヤし、凱旋門賞が5ヶ月ぶりの復帰緒戦だった。本来ならば1番人気になるような実績ではなかったが、ほかに大した馬がいなかったのと、サンマルタン騎手人気が後押しして本命になった。 パイアーズ騎手は、全く人気のない*トピオ(Topyo)という3歳馬に乗っていた。トピオは春にロワダゴベールをはじめ一流馬に歯が立たず、夏にコートノルマンド賞を勝ったが、凱旋門賞の前には名騎手レスター・ピゴットとのコンビで7着に大敗しており、明らかに圏外と考えられていた。 トピオは中団に控え、最後の直線の手前で先行集団へあがっていった。人気上位は最後の直線に備えて後方に待機していた。逃げた馬が予想外に粘り、これがバテるとトピオが先頭になって抜け出した。これをロワダゴベールが必死に迫り、さらに後ろから人気のリボッコ、サルヴォが追い込んでくるが、5ヶ月ぶりのロワダゴベールは残り70メートルあたりで差を詰められなくなった。一番脚色が良かったサルヴォは残り300メートルで9馬身差まで詰めたところで前がふさがり、残り100メートルで抜けだしてトピオに迫るが、クビ差まで追い詰めたところでゴールだった。 トピオの単勝は83倍で、史上最高の大穴になった。多くはトピオのムラ駆けとみたが、トピオの馬主であるヴァルテラ未亡人はパイアーズを「ピゴットよりもトピオのことを理解していた」と評した。ヴァルテラ未亡人はフランスの大馬主で、夫のレオン・ヴァルテラとともに凱旋門賞を除く全てのフランス中の大レースを勝っており、この勝利でとうとうフランスの主要レース全制覇を達成した。34歳のパイアーズ騎手は、勝利後のインタビューで、「人生最高の時」と語った。その様子はテレビでフランス中に放映された。 その4日後の木曜日、自宅にいたパイアーズ騎手は逮捕され、投獄された。その事情はこうである。 凱旋門賞のおよそ1年半前の1966年7月16日、まだフランスに来てまもないパイアーズ騎手は、とある女性と車同士の交通事故を起こした。まだフランス語がよくわからなかったパイアーズは謝罪をして、彼女を家まで送っていった。パイアーズは、彼女に怪我がないか訊ね、無事だと聞いて安心して引き上げた。しかしこのとき、パイアーズ自身はそうとは知らずに、パイアーズに一方的に非があると言質を取られてしまった。訴状が届いても読めないパイアーズは放っておいた。パイアーズは出廷しないまま公判が開かれ、1967年7月4日に1年の実刑判決が出ていた。パイアーズはそんなことは露知らず、凱旋門賞に出て優勝したのである。たまたまテレビをみていたその女性は、パイアーズが世界最大のレースに勝ってべらぼうな賞金を受け取ったことを知り、パイアーズを訴えることにした。 パイアーズは収監され、彼がフランスで稼いだ賞金は全て没収された。後に、フランス語を解さない外国人だったという情状が考慮され、33日後に仮釈放された。出所したパイアーズはインタビューで「獄中でいちばん親切にしてくれたのはソ連のスパイだったやつだよ」と言って笑わせた。
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