「しゃべくり漫才」の誕生とは? わかりやすく解説

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「しゃべくり漫才」の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 13:58 UTC 版)

漫才」の記事における「「しゃべくり漫才」の誕生」の解説

1930年昭和5年)、吉本興行部(吉本興業前身所属コンビ横山エンタツ花菱アチャコ」が、従来和装であった歳師・万才師と異なり背広を身に着け長らく歳・万才音曲の「つなぎ」扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的なしゃべくり漫才スタイル創始し絶大な人気博したしゃべくり漫才これまでの歳・万才よりも多く笑い企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くコンビ結成されたほか、ラジオ放送コンテンツとして全国的な認知得て多くスター漫才師生まれた発表の場増加広がり合わせ秋田實など、専業漫才作家活動開始するようになった。やがて漫才は主に「しゃべくり漫才」を指す語となり、これまでの漫才少数派となり、「音曲漫才」というレトロニム化した同時期の東京では、柳家金語楼がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子家梧家緑朗に高座掛け合い演じさせた。両者はのちにリーガル千太・万吉名乗り1935年昭和10年)には他の約80組のコンビとともに帝都漫才組合」を設立した第二次世界大戦終結後漫才師何人かが戦死病死消息不明見舞われたり、劇場プロダクション運営停止したりする(例として、吉本映画館運営会社一時転身した)など、演芸のための人的物的リソース不足する中、松鶴家団之助による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手研究会MZ研進会」発足など、漫才復興向けた動きなされた。やがて演芸プロダクション劇場運営会社次々と再興し多く芸人いずれかに所属するうになる

※この「「しゃべくり漫才」の誕生」の解説は、「漫才」の解説の一部です。
「「しゃべくり漫才」の誕生」を含む「漫才」の記事については、「漫才」の概要を参照ください。

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