陸軍飛行戦隊
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上級部隊
飛行戦隊を筆頭に各飛行部隊の上級部隊として、主に以下の部隊が存在し「陸軍航空部隊」を組織していた。
飛行団
核となる飛行戦隊が2個以上集まり、旅団に相当する団である飛行団(FB)を編成した。1935年(昭和10年)の組織改編で生まれた部隊である。長は団長(飛行団長)で少将・大佐・中佐クラスが補職し、司令部を置き数名の部員を擁した。
各飛行団のうち「独立(s)」の称呼を冠する独立飛行団(FBs)は、飛行師団ではなく更なる上級部隊(#航空軍)高級指揮官の直属となる部隊である。
- 第1飛行団(1FB)
- 第2飛行団(2FB) - 前身は満州事変に対応および飛行部隊の統一指揮のため1931年(昭和6年)に関東軍にて編成された「関東軍飛行隊」(1935年に「関東軍飛行集団」へ改編)
- 第3飛行団(3FB)
- 第4飛行団(4FB)
- 第5飛行団(5FB)
- 第6飛行団(6FB)
- 第7飛行団(7FB)
- 第8飛行団(8FB)
- 第9飛行団(9FB)
- 独立第10飛行団(10FBs)
- 第12飛行団(12FB)
- 第13飛行団(13FB)
- 第14飛行団(14FB)
- 独立第15飛行団(15FBs)
- 第16飛行団(16FB)
- 第17飛行団(17FB)
- 第18飛行団(18FB)
- 第19飛行団(19FB)
- 第20飛行団(20FB)
- 第21飛行団(21FB)
- 第22飛行団(22FB)
- 第23飛行団(23FB)
- 独立第25飛行団(25FBs)
- 第26飛行団(26FB)
- 第27飛行団(27FB)
- 第30飛行団(30FB)
- 第100飛行団(100FB)
また、主に練習飛行隊(RF)・教育飛行隊(FRK)・錬成飛行隊(FRL)といった各教育飛行部隊を隷下にもつ飛行団として、教育飛行団(KFB)も編成されている。
飛行師団
さらに飛行団が2個以上集まり戦略的単位の師団である飛行師団(FD)を編成した。1942年(昭和17年)4月以前は飛行師団は飛行集団(FC)と称しており、飛行師団はこれを改称したものである。中核となる飛行戦隊のほかに支援部隊である航空地区司令部(FTB、飛行場大隊・飛行場中隊を隷属)、航空通信団司令部(FTB、航空通信連隊(FTR)を隷属)などを隷属している。長は師団長(飛行師団長)[註 7] で中将が補職し、司令部を置き参謀長(大佐級)1名・参謀数名・高級副官・兵器部長・経理部長・軍医部長など部員を擁した。
- 第1飛行師団(1FD)
- 第2飛行師団(2FD)
- 第3飛行師団(3FD)
- 第4飛行師団(4FD)
- 第5飛行師団(5FD)
- 第6飛行師団(6FD)
- 第7飛行師団(7FD)
- 第8飛行師団(8FD)
- 第9飛行師団(9FD)
- 第10飛行師団(10FD)
- 第11飛行師団(11FD)
- 第12飛行師団(12FD)
- 第13飛行師団(13FD)
このほか、隷下に教育飛行団などをもつ飛行師団に準ずる教育部隊として、航空師団(KD)や教育飛行師団(KFD)も編成されている。
- 第51航空師団(51KD)
- 第52航空師団(52KD)
- 第53航空師団(53KD)
- 第54航空師団(54KD)
- 第51教育飛行師団(51KFD)
1944年6月、航空総監部が管轄していた学校(航士校および各少飛校を除く)は軍隊に改編され、明野陸軍飛行学校に代表される主要各陸軍飛行学校は教導飛行師団(KFD)となり、当初は教導航空軍(KFA、同年12月より第6航空軍に改編)に隷属した。なお、熊谷陸軍飛行学校は教導飛行師団とならず上記の航空師団(第52航空師団)となっている。のちに明野と常陸の教導飛行隊[註 8] は飛行戦隊(前者が第111戦隊、後者は第112戦隊)となった。
戦闘飛行集団
戦闘機を大量に集中運用(戦闘戦隊・戦闘飛行団を主に集中配備)する飛行師団に準ずる部隊として、大戦後期のフィリピン防衛戦時に第30戦闘飛行集団が、最末期の本土防空戦時に第20戦闘飛行集団が編成された。長は集団長(戦闘飛行集団長・飛行集団長)で中将・少将が補職し、司令部を置く。飛行師団の改編前の旧称たる飛行集団とは異なるものの、軍隊符号は同じくFC。
- 第20戦闘飛行集団(20FC)
- 第30戦闘飛行集団(30FC)
航空軍
1942年6月以降には、上述の飛行師団[註 9] を束ねる軍として航空軍(FA)が編成される。長は司令官(航空軍司令官)で中将が補職し、司令部が置かれ参謀長・高級参謀・参謀数名・高級副官・兵器部長・経理部長・軍医部長・法務部長や部員を擁す。
- 第1航空軍(1FA) - 日本本土(東日本)
- 第2航空軍(2FA) - 満州 - 前身は1936年(昭和11年)に在本本土航空部隊を統率する司令部として編成された航空兵団
- 第3航空軍(3FA) - ビルマ、インドネシア、タイ、仏印(南西方面)
- 第4航空軍(4FA) - ニューギニア、フィリピン(南東方面)
- 第5航空軍(5FA) - 中国、朝鮮
- 第6航空軍(6FA) - 日本本土(西日本)
航空総軍
さらに大戦末期の1945年(昭和20年)4月には、主に日本本土防空を任務とする全陸軍飛行部隊を統轄する総軍として、官衙である陸軍航空総監部を改編した天皇直隷の航空総軍(FSA)が編成された。長は司令官(航空総軍司令官)で大将が補職し、司令部を置き参謀長・参謀副長・高級参謀・参謀数名・兵器部長・経理部長・軍医部長・法務部長を筆頭に、部員や司令部附約700人近い人員を擁した。
- 航空総軍(FSA) - 北東方面を除く日本本土、朝鮮
註
- ^ それまでは整備には工兵科、空中勤務者には歩兵科・騎兵科・砲兵科など様々な兵科からの出向者が携わっていた。
- ^ 太平洋戦争初期まで2個中隊編制だった第59戦隊(戦闘)、第81戦隊(司偵)ほか、また戦闘機集中運用のために4個中隊編制となったフィリピン防衛戦従軍の第200戦隊(戦闘)など、必ずしも3個中隊編制でない戦隊も少なからず存在した。また、分遣隊として1個中隊を戦隊から一時的に切り離し遠隔地にて独立飛行中隊的な運用をされる戦隊も多々あった。
- ^ 戦後に出版された多くの軍事関連書物などでは、大戦後期の飛行隊編成下の飛行戦隊について詳述してるにもかかわらず、本来は誤用の旧称である中隊(飛行中隊)と呼称をしている事が多くこれが浸透している。
- ^ 1944年(昭和19年)2月に英海軍駆逐艦「パスファインダー」大破の戦果の第64戦隊、1943年12月に米海軍輸送船3隻命中弾の戦果の第68戦隊など。
- ^ 陸軍最年少の24歳で第244戦隊長となった小林照彦大尉が有名。
- ^ 陸士36期、陸軍士官学校校歌作詞者
- ^ 飛行集団の長は集団長(飛行集団長)。
- ^ 空中勤務者は教官・助教を、地上勤務者も飛校附を中心に機体は飛校機材を使用。
- ^ なお、第5航空軍は隷下に飛行師団を擁せず飛行団を直属している。
- ^ 挺進連隊の部隊マーク「落下傘」を共用している。
- ^ 飛行師団(飛行集団)・航空軍・航空総軍および、方面軍・総軍・防衛総司令部などの高級司令部が司令部人員の輸送や連絡に用いる航空機を運用。
- ^ 官衙の中でも陸軍航空審査部飛行実験部(旧・飛行実験部実験隊)はマークを有さず、代わりに機体番号の数字を描いた。
- ^ 穴吹智は「吹雪」・「君風」の愛称を付けている。
- ^ 矢印自体は白で、縁をコバルトブルーとすることが多かった。
- ^ 「虎は千里往って千里還る」の中国(独飛18中の駐屯地)の故事から。
- ^ 部隊マークから連想された「タコ八」の愛称を持つ一方、その図案から「翼の生えた8」とも称される。
- ^ 同特攻隊には、装備の四式戦「疾風」の機体後端から機首に至るまで側面全体に赤色の「矢印」を描き、さらに「必沈」の文字を記入した大変派手なパーソナルマークで知られる高埜徳伍長が操縦者として居た。
出典
- ^ 碇義朗『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』光人社、1997年。
- ^ 梅本 (2010a), p.80
- ^ 梅本 (2010a), p.113
- ^ 梅本 (2010a), pp.94-95
- ^ 梅本 (2010a), p.61
- ^ 梅本 (2010a), p.118
- ^ 梅本 (2010a), p.68
- ^ 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年7月、p.13
- ^ 神野正美 『台湾沖航空戦』 光人社、2004年11月、pp.90-91、なお、同書p.276に1945年1月2日に行われた飛行第7戦隊のサイパン島攻撃時の写真が掲載されている。
- ^ 偵察航空隊OB親睦会 テールマークの由来 2017年10月18日閲覧
- ^ 一〇〇式司令部偵察機
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