立山 歴史・信仰

立山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 02:19 UTC 版)

歴史・信仰

雄山神社と登山者
地獄谷のイオウ塔

立山は、縄文の太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰立山信仰[富 2])による立山修験が現れて、日本三霊山の一つとされている。

律令国家の立山開山

立山について「万葉集」には「多知夜麻」と記された[9]。国文学的表現として立山は「植うる剣」とされ、「荒城の月」の歌詞にある「ううる剣」のモチーフの基でもある。

越中の守として遣わされた国司大伴家持天平18年〈746年〉- 天平勝宝3年〈751年〉以前在任)は、天平19年(747年)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ[10]。「万葉集」に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に片貝川が詠われたのは有力な拠点があったとうかがえる。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や有頼柳[11]などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍(はんえん)している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710年 - 794年)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。

一方、8世紀ごろに役小角を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に空海最澄らが密教(真言宗天台宗)を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、大日岳剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに律令国家的な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことがうかがえる。

修験道と密教

京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。

最澄が修めることができなかった真言密教は、円仁から円珍と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の円珍は、役小角の後を慕い承和12年(845年)大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年(846年延暦寺の学頭となって、仁寿3年(853年)唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、青龍寺の法全から、伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に帰国し、翌貞観元年(859年)に園城寺に入り、清和天皇より園城寺を賜わってこれを顕教、密教に加えて修験道を兼学する伝法灌頂の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。

この円珍の弟子、康済(こうぜい、828年 - 899年)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が天安2年(858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に芦峅寺、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)または森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社のほかに、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残ってわずかに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている[図 8]。このほかに、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などがわずかに現存している。

康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年(863年)9月条、初めて官位を授かり、三代実録「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に正五位上を授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建がうかがえ、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889々)8月条、日本紀略「正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。

国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか佐伯御形、佐伯鷹守、9世紀の大伴黒成、佐伯河雄などが続く。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。

開山縁起では、大宝律令施行の大宝元年(701年)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の諡号恵のように)を名に当てはめて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。

日本神話の説話

立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、それまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話の説話(古事記(712年)、日本書紀(720年)など)による天地開闢黄泉の国伊邪那岐命黄泉帰りと神産みの禊などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。

雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また「和漢三才図会」(1712年)巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。なお平安以降、立山権現には現在[いつ?]と異なる姿がある。

芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)、橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。

明和7年(1770年)、京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。

岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。

立山大権現の大宮開山縁起

「伊呂波字類抄」(平安末期という)の「立山大菩薩顕給本縁起」によると、越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗ったという[12]

「類聚既験抄」(鎌倉末期という)では、「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701年)始めて建立された。相伝に云う立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」と記されている[12]

「和漢三才図会」巻六八(1712年・江戸中期)では、「立山権現 文武天皇・大宝元年(701年)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」と記されている[12]

有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。立山は山頂付近に地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。

参拝基本作法

立山三山をめぐる立山登拝は、須弥山の天界[富 3]思想に到達するもので、地獄と浄土による生死観の対比、および、立山本峰に至って雄山の山頂(雄山神社峰本社)から北辰に重ねて大汝を拝むこと、これ即ち宇宙に己(大汝)を写して己を悟るものと考えられ、古来修験より信仰が広がっている。また、大日岳や雄山から剱岳(俱利伽羅不動明王)を拝むことも同様である。信仰上、大汝山や剱岳は拝む山であり自らが登る山ではない。

参拝前の御祓

立山登拝の際に、河原で石を携えて雄山の山頂に石を供える習わしがある。天界[富 3]浄土となる立山本峰は、富山城下から見ると、立山の大日岳による死角に隠れされている。登拝は、麓の岩峅寺に所在する雄山神社(旧称は立山権現・雄山権現)、「神様の降り立つ場所」の意味を含む芦峅寺の麓大宮(前立社壇)にて、立山に入山する者の身の穢れや罪を祓い、道中無事の祈願から始まる。雄山の山頂には、雄山神社本宮(峰本社)があり、霊山信仰を導いている。


注釈

  1. ^ 1952年(昭和27年)に特別天然記念物に指定された。

出典

  1. ^ a b 日本の主な山岳標高(富山県の山)、国土地理院、2010年12月16日閲覧。
  2. ^ 基準点成果等閲覧サービス、国土地理院、2010年12月16日閲覧。
  3. ^ 『一等三角点百名山』山と渓谷社、1988年、ISBN 4-635-17030-6
  4. ^ 『新聞に見る20世紀の富山 第1巻』(2000年5月20日、北日本新聞社発行)200頁。
  5. ^ 『新聞に見る20世紀の富山 第1巻』(2000年5月20日、北日本新聞社発行)201頁。
  6. ^ 中部山岳国立公園環境省)、2010年12月16日閲覧。
  7. ^ 1995年(平成7年)6月27日文部省告示第100号「文化財を重要文化財に指定する件」
  8. ^ Tateyama Midagahara and Dainichidaira | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2012年7月3日). 2023年4月14日閲覧。
  9. ^ 万葉集 巻17、4000、4024
  10. ^ 万葉集 巻17 4000 立山賦一首
  11. ^ 有頼柳”. 日本伝承大鑑. 2021年5月7日閲覧。
  12. ^ a b c 雄山神社(富山・立山町)”. 2023年7月30日閲覧。
  13. ^ 立山町の観光施策について~自然と文化の地域資源を活かした地域活性化策~”. 富山県立山町 商工観光課. 2023年8月5日閲覧。
  14. ^ 学校登山用ヘルメットの貸出し” (pdf). 富山県山岳遭難対策協議会 (2021年3月2日). 2023年7月23日閲覧。
  15. ^ 立山カルデラ研究紀要第11号-芦峅ガイドの系譜p23 五十嶋一晃 2017年12月2日閲覧
  16. ^ バス - 夏山バスのご案内(室堂線”. 富山地方鉄道株式会社. 2023年8月2日閲覧。
  17. ^ 登山バス<ホーム”. まいたび. 2023年8月3日閲覧。
  1. ^ 『日本百名山』深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp.188-191
  2. ^ 『新日本百名山登山ガイド〈上〉』 岩崎元郎(著)、山と渓谷社、2006年、ISBN 4-635-53046-9、pp148-150
  3. ^ 『花の百名山』田中澄江(著)、文春文庫、1997年、ISBN 4-16-352790-7、P213-216。その著書で代表する花としてイワイチョウを紹介した。
  4. ^ a b c 『改訂版 富山県の山』山と渓谷社、2010年、ISBN 978-4-635-02367-2、pp.16-19
  5. ^ a b 『コンサイエンス日本山名辞典』三省堂、1992年、ISBN 4-385-15403-1、P326-327
  6. ^ a b c 『新日本山岳誌』ナカニシヤ出版、2005年、ISBN 4-779-50000-1、P914-916
  7. ^ 『切手と風景印でたどる百名山』ふくろう舎、2007年、ISBN 978-4-89806-276-0、P92
  8. ^ 本郷真紹「古代社会の形成と展開」64ページ(深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦『富山県の歴史』山川出版社 2003年11月)など
  9. ^ 『名山の日本史』河出書房新社、2004年、ISBN 4-309-22410-5、p254
  10. ^ ウォルター・ウェストン『日本アルプス再訪』、水野勉訳、平凡社、1996年、ISBN 4-58-276161-5
  11. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p333 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  12. ^ a b c d 『北アルプス山小屋物語』東京新聞出版局、1990年、ISBN 4-8083-0374-4、P161-178
  13. ^ 『ヤマケイ アルペンガイド8 剣・立山連峰』山と渓谷社、2008年、ISBN 978-4-635-01352-9
  14. ^ 『剱・立山 (山と高原地図 36) 』 昭文社、2010年、ISBN 978-4-398-75716-6
  1. ^ a b 立山連峰:日本初の「氷河」、学会が認定”. 毎日新聞 (2012年4月4日). 2012年4月4日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ a b 立山で新たに氷河二つ 内蔵助と池ノ谷 県内計5カ所に 北日本新聞社 2018年1月19日
  3. ^ 富山新聞、2010年2月7日[要ページ番号]
  4. ^ 国内7カ所目の氷河確認 北アルプス、唐松沢雪渓 産経新聞 2019年10月4日
  5. ^ 北日本新聞』2008年5月31日朝刊[要ページ番号]
  6. ^ 23人遭難か ふぶきの立山『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月3日夕刊 3版 11面
  7. ^ 七人(同志社大)いぜん不明 十六人は無事に避難 吹雪の立山『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月3日朝刊 12版 3面
  1. ^ 国内初の現存する「氷河」を立山連峰で発見!|立山の雪|とやま雪の文化|富山県”. 富山県. 2018年6月22日閲覧。
  2. ^ 立山信仰の世界-第2展示室-”. 富山県. 2021年4月26日閲覧。
  3. ^ a b 富山県. “天界”. 富山県. 2021年4月26日閲覧。
  4. ^ 立山駅前(千寿ケ原駐車場)の利用について”. 富山県. 2023年8月3日閲覧。
  5. ^ 駐車場のご案内”. 立山黒部アルペンルート. 2023年8月3日閲覧。
  1. ^ a b 1953年(昭和28年)6月15日郵政省告示第770号「白山頂上郵便局等設置」
  2. ^ 1970年(昭和45年)6月4日郵政省告示第480号「郵便局改称の件」
  3. ^ a b 1981年(昭和56年)7月18日郵政省告示第534号「簡易郵便局を設置する件」
  4. ^ 1981年(昭和56年)6月17日郵政省告示第423号「郵便局を廃止する件」
  5. ^ 別冊(内国郵便約款第79条及び第97条関係) 交通困難地・速達取扱地域外一覧”. 日本郵便 (2022年2月21日). 2022年5月1日閲覧。
  6. ^ 2000年(平成12年)4月11日郵政省告示第239号「ふるさと八十円郵便切手および五十円郵便切手(北陸)を発行する件」






立山と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「立山」の関連用語



3
90% |||||

4
90% |||||

5
90% |||||

6
90% |||||

7
90% |||||

8
90% |||||

9
90% |||||

10
90% |||||

立山のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



立山のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの立山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS