崇神天皇 陵・霊廟

崇神天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 08:26 UTC 版)

陵・霊廟

(みささぎ)の名は山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円

『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。『延喜式』諸陵寮では「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟で遠陵としている。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。なお行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を真陵とする考え方もある。また江戸時代には渋谷向山古墳(現・景行陵)が陵墓とされていた。

吉村武彦行燈山古墳について巨大な前方後円墳は王陵(天皇陵)に間違いなく宮内庁比定の崇神天皇陵はほぼ間違いないだろうと述べている[5]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[4]

箸墓伝説

大物主を祀ることで疫病が収まった後、倭迹々日百襲姫命(やまとととびももそひめ)は大物主神の妻となった。大物主神は夜しか現れなかったので、姫はもっとよく御姿を見たいと言った。そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。墓を作るため人々は列を作ってリレー形式で石を運んだと伝えられ、この様子が歌に詠まれた。

大坂に 継ぎ登れる 石群を たごしに越せば 越しがてむかも

なお、倭迹々日百襲姫命は薨去時には少なくとも127歳を超える老婆であった。

出雲振根

あるとき、御間城天皇は出雲の宮に治められている神宝を見たいと使者を送った。神宝を管理する出雲振根は筑紫国に行って留守だったが、弟の飯入根が代わりに神宝を献上した。筑紫から帰ってきた出雲振根はなぜあっさりと神宝を渡してしまったのかと怒った。年月を経ても出雲振根の怒りは増すばかりだった。出雲振根は果し合いをするべく飯入根を淵に呼び出した。出雲振根は「水がきれいだ。まず体を清めよう」と言い、二人は服と刀を脱いで水に入った。出雲振根は先に上がって密かに作った真剣そっくりの木刀と弟の真剣をすり替えた。そして果し合いが始まったが飯入根が剣を抜こうとしても抜けない。剣の形をしただけの木なのだから当然である。出雲振根は容赦なく弟を斬り殺した。そこで世の人たちは歌を詠んだ。

「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ」

なお、この話は『古事記』で倭建命出雲建を討つ話と酷似している。

都怒我阿羅斯等

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは『日本書紀』で垂仁天皇2年条の分注に記載される人物である[6]。説話の時期・内容の類似性から上述の蘇那曷叱知と同一視する説がある。船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着した都怒我阿羅斯等の額には角が生えていたと言い「角鹿(つぬが)」という地名の語源と言われる(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に先皇の名である(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔し、これが任那(弥摩那)の語源とされている。

考証

実在性

初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が一般に希薄であることされることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と同一人物とする説もある。井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている[2]

ただし、井上は崇神に次ぐ系譜と15代応神天皇以降の系譜との繋がりには懐疑的であり、直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えており[7]、このように後代の天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある[8]

大津透も崇神天皇のミマキイリヒコイニヱという名が「イリヒコ」を持ち実名に近い形であり、また崇神から「旧辞」が伝えられていること、記紀に「ハツクニシラススメラミコト」という名前が伝えられていることから実在性を認め、ある段階で神武天皇にかわる初代天皇として伝えられていたとする説も有力であると述べている[9]

古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して258年もしくは318年没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国卑弥呼台与の治世時期と重なることになる。崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説、西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠宝賀寿男などの説や、「崇神天皇の同時代に大和に卑弥呼のような女王はいないことからも邪馬台国畿内説は誤りである」とする古田武彦などの説も存在する。

考古学的見地から見た実在性

寺沢薫は日本書紀には崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮とあり、古事記ではミマキイリヒコイニエノミコト(崇神天皇)の師木水垣宮、イクメイリヒコイサチノミコト(垂仁天皇)の師木玉垣宮、オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト(景行天皇)の纒向日代宮があったとあり、纒向は師木(磯城)に包括されるから崇神天皇の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。実在すると言われる初期三代の都宮が纒向に造営されたという伝承をもつこと自体に重大な示唆が含まれていると指摘する[10]

また埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人「大彦命」を祖とする系譜が記されていることは5世紀後半の雄略天皇の時代には崇神天皇を祖とする王統譜(原帝紀)が存在した可能性を示している [11]

また継体天皇の皇后であった手白香皇女の陵は宮内庁治定西殿塚古墳、考古学ではその北隣の西山塚古墳と考えられているが、いずれも継体陵のある摂津三島から離れた大和の山辺の大和古墳群の地に葬られたのは王統始祖である崇神天皇の近くということを意識してではないかという説もある[12]

ただし崇神陵とされる行灯山古墳は最古の大型前方後円墳である箸墓古墳から数えると五番目に築造された大王墳と考えられるため、箸墓の被葬者を卑弥呼ないしはヤマト王権の初代大王と見なすと、崇神天皇は初代でも10代目でもなく5代目の大王だった事になる。

称号

崇神天皇は奈良盆地南東の三輪山麓を根拠地として宗教的・軍事的方法によって国内の統一を進めており、後世これを「はつくにしらす」と追称しているのは彼が原初的な小国家を統一してヤマト王権を確立したことを示すものと考えられる[3]。また『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと考える説がある[13](『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。安本美典は上述の神武と崇神の称号に関する訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性があると主張している。どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている[14]

崇神の和風諡号の「みまきいりひこ」と次の垂仁天皇の和風諡号の「いくめいりひこ」は、共に「いりひこ」(入彦)が共通している。「いりひこ」・「いりひめ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「いり」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在した可能性が高く、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名()をそのまま記紀に記載した、とする説も存在する。

高句麗の建国との関連

『日本書紀』は天智天皇7年(668年)の高句麗滅亡の記事で、この滅亡は仲牟王(東明聖王)が高句麗を建国してからちょうど700年目であったと記している[注 5]。建国の年は崇神天皇66年(機械的に換算すると西暦紀元前32年)となり、『三国史記』東明聖王本紀が記す紀元前37年と5年の差があるが、上述の蘇那曷叱知、都怒我阿羅斯等、及び天日槍(アメノヒボコ)の記事との関連が推測される。


注釈

  1. ^ 『日本書紀』で開化天皇28年に19歳で立太子とあり、これから逆算すると開化天皇10年。また崇神天皇68年に120歳で崩御とあり、これから逆算すると開化天皇9年。
  2. ^ 天照大神を祀る場所はその後各地を移動したが垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢
  3. ^ 垂仁紀に「穴磯邑の大市長岡岬に祀った」とある。
  4. ^ 墨坂は神武東征の古戦場であり、大坂は翌年に起きた武埴安彦の乱で戦場となった。
  5. ^ これはどの文献に拠ったか不明であるが、天平勝宝5年(753年)に孝謙天皇渤海国王・大欽茂に宛てた国書で『高麗旧記』を引用している。

出典

  1. ^ 『日本書紀』による。
  2. ^ a b (井上 1973)P275
  3. ^ a b 肥後(1979)p.53
  4. ^ a b 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  5. ^ 「ヤマト王権」岩波新書 2010 47頁
  6. ^ 都怒我阿羅斯等(古代氏族) & 2010年.
  7. ^ (直木 1990)P20-23
  8. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  9. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017 128‐129
  10. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 2023‐3‐10 95‐96頁
  11. ^ 「ヤマト王権」吉村武彦 2010年11月19日 44~46頁、83頁
  12. ^ 「継体王朝」大巧社 2000‐11‐15 18頁
  13. ^ (井上 1973)P269-270、(直木 1990)P20
  14. ^ (安本 2006)P258-259






崇神天皇と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「崇神天皇」の関連用語

崇神天皇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



崇神天皇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの崇神天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS