中華民国期の通貨の歴史 中華民国期の通貨の歴史の概要

中華民国期の通貨の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 00:12 UTC 版)

前史

1911年の鉄道利権回復運動を背景に生じた武昌での武力蜂起が辛亥革命へと発展し、中華民国が成立し、中国は近代国家へ歩み始めるが、その途は平坦でなかった[2]。近代化を進めようとした北京政府の権力基盤は脆弱であり、統一的な財政、貨幣制度を構築しようとする試みは何度も挫折を余儀なくされた[2]

一方、第一次世界大戦から1920年代にかけて、列強各国が相次いで金本位制に復帰した結果、銀の国際的な価値が下落し、銀を通貨として用いていた中国国内に銀が流入するようになった[2]。銀の流入がもたらした穏やかなインフレ基調の下で、上海租界を中心とした長江下流流域では、中国資本の繊維工業、その資金・担保提供源としての銀行・不動産業、ならびにその原料供給地としての農村が有機的に結びついて発展した[2]

中国国民党による「法幣」発行

1928年民国17年)、中国国民党北伐を完了し、南京に統一政権を打ち立て、それまでの曖昧だった中央と地方との財政的な権限を整理し直し、統一的な国民経済の形成をめざす改革を実行に移していくことになる[3]。経済再建のための全国経済会議、財政会議を開いてまとまった政策を打ち出した[1][3]。この過程で、上海に中央銀行が設立され、銀行券の発行を始める。

しかし翌1929年10月24日、ニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」をきっかけに大恐慌が勃発し、世界の金本位制の崩壊とともに、国民党政府が受け継いだ中国伝統の銀本位制は崩壊の危機にさらされた[1][4]。それまで中国の通貨の基本は銀で、紙幣は中央銀行がなかったため民間の商業銀行がそれぞれ独自に発行しており、そのため発行元銀行の信用度によって額面と流通価値が変動するのが普通であった[5]

大恐慌初期は、恐慌に伴う世界的な銀価格の低下が、中国の外国為替レートの切り下げと同じ意味をもち、輸出促進に働き、中国にプラスに作用した[4]。しかしイギリスの金本位制離脱後、この恩恵は喪われ、1931年秋ごろから大恐慌の深刻な影響が中国にもあらわれた[4]。農産物をはじめとする諸物価が下落し、工場の倒産や商店の閉鎖が相次ぎ、銀を本位とする複雑な通貨体制の限界は誰の目にも明らかだった[1][4]。1934年にはアメリカの銀買い上げ政策による国際的な銀価格の高騰によって、好況を呈していた上海経済の転落が決定的なものになる[6]。銀価格の高騰のために今度は中国国内から海外に銀が流出し、上海の資産価格が落ち込みバブルが崩壊する[6]。同時に繊維製品の輸出の落ち込みと担保価値の下落により債務返済不能に陥る企業が増加し、金融機関の破たんも相次ぎ、上海を中心とした深刻な金融恐慌に発展した[6]。このような不安定な状況に終止符を打つためには、銀価格の国際的な変動により国内の金融政策が大きく左右されるという状況の改善しかなかった[6]

1933年(民国22年)には、秤量単位である「銀両」が廃止され、銀本位通貨の単位が「元」に統一されることにより(廃両改元)、「幣制改革」以降の管理通貨制度に道筋がつけられることになった[7]1935年11月、国民党の財政責任者である宋子文宋慶齢孫文未亡人の弟、宋美齢蔣介石夫人の兄であり、彼女ら「宋家三姉妹」を含む宋一族の一員である)は銀貨流通停止と全国統一通貨である法幣発行に踏み切った[1]。現銀(銀貨・銀塊)の貨幣としての流通を禁じて、中国銀行中央銀行交通銀行(現・兆豊国際商業銀行および交通銀行)と中国農民銀行(現・合作金庫銀行)の政府系4銀行の発行する銀行券のみが法定通貨すなわち「法幣」と定められた[8][9][10]。この通貨改革を英米は後押しをし、「法幣」の印刷も英米が担当した[8]。とくに英国は財政専門家リース・ロスを駐華英国大使館の経済顧問に任命し、改革の実現に協力した[8][9][11]。「法幣」は、イギリス・ポンドにリンクされており(1元=1シリング2.5ペンス)、同時に現銀はアメリカに売り渡され、「法幣」の安定のための基金として積み立てられた[9]。通貨の統一は全国的な経済政策を進める上でも、近代国家の体裁を整えるためにも必要なことであったが、この結果元はドルとポンドの支配下に置かれることを意味するとともに、中国の庶民は現銀というインフレから身を守るための手段を奪われることでもあった[9]

この幣制改革に対しては、日本政府は協力を拒んだ[8][11]。日本は1932年(民国21年=昭和7年)に満洲国を樹立しており、これと地続きの華北地方を国民党支配から切り離す「華北分離工作」を展開していたので、国民党による中国通貨統一事業は邪魔だったのである[8][11]1935年9月上旬には、英国はリース・ロスと広田弘毅重光葵といった日本外務省側の人物と会談をさせた[11]。ここでリース・ロスは、「中国に有力な銀行を興し、これに通貨発行権を独占させる。通貨はポンドにリンクして銀本位から離脱させる。その一方で、中国は満洲国を承認し、満洲国は中国の負債中の適当な割合を分担する」という案を提示した[11]。しかし、日本の外務省側はこの案に乗らなかった[11]

同年11月4日、中国は幣制改革を断行し、華北地域の有する現銀が南方の国民政府のもとに送られることになった[11]。日本側はこの現銀の南送により華北経済の自治的側面が損なわれると考え、日系6銀行は手持ちの銀引渡しを拒否することに決した[8][11]。そこで、イギリス政府は国王命令を出して、中国にあるイギリス人居住者に対して法幣改革への全面協力を義務付け、香港上海銀行(HSBC)など英国系銀行にも銀の引き渡しを命令した[12]。アメリカは、1935年11月に米中銀協定を締結し、中国は回収した銀をアメリカに売却して、米ドル、英ポンドなど外貨による通貨安定基金の原資を得た[12]。ここに通貨面でのA(アメリカ)B(イギリス)C(中国)連合が成立した[12]

一方で、この1935年という年は、中国共産党国民党軍に追われて長征を敢行中であり、「抗日救国」を全国民に呼びかけた「八・一宣言」を発表し、抗日の世論が全土に広がっていた[8][13]。このように中国史上で初めての管理通貨体制への移行は、短期間で成功した[14]。「法幣」が中華民国の単一の通貨となり、南京政府の支配地域では法幣が行きわたり、対外的に安定した「元」を基礎に、中国経済は1936年に、農作物の豊作と相まって顕著な回復を示した。幣制改革の成功によって、中央政府の統治力はかつてないほど強くなった[14]。国民政府は、軍事的統一・政治的統一に加えて、金融・通貨の統一にも成功した。

しかしこの時、すでに満洲国として独立していた東北地域では法幣が通用することはなかった[14]。満洲国では「日満経済ブロック」の掛け声のもと、国民政府の幣制改革と時を同じくして、満洲中央銀行が発行する「国幣」と呼ばれる通貨による「幣制改革」が行われ、日本円との等価が声明されていたのであった[14]

日本軍による軍票の発行

このように、世界の流れが中国法制改革を支持し、法幣が定着してきたので、中国で営業する日系金融機関もやむなく銀の提供と「法幣」の受け入れを検討し始めた[12]。のみならず、大蔵官僚であり支那派遣軍特務部の嘱託であった毛利英於菟(ひでおと)は、「西安事件を契機として支那幣制及び北支幣制対策確立に関する意見」という意見書をまとめている[15]。その中で彼は、西安事件(1936年12月12日に蔣介石に内戦停止を説いて拒絶された張学良が兵を動かして蔣を監禁した事件)以降の中国は挙国一致が進み、幣制改革も最終段階に入り、中央銀行の改組が具体化されるだろう。今まで日本は、現銀を国民政府に引き渡すことを拒絶していたが、これを改め、中国の貨幣統一を受け入れ、両国の貨幣価値の安定化を図るべきだ」と唱えた[15]

しかし、その矢先の1937年(民国26年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中が全面戦争に突入した[12]。これ以降、日本軍が占領した華北地方には華北連合銀行を、上海でも中華民国維新政府が華興商業銀行を設立し、「法幣」を排除し、独自通貨を発行した[12]。また日本軍は、華中・華南の占領地には、軍用手票(軍票)を発行して、流通させた[12]。しかし、華北連合銀行は資金力が弱く、華北連合銀行券は、英ポンドと米ドルのしっかりとしたサポートを受けていた国民党発行の「法幣」にはかなわなかった[12]。また上海の華興商業銀行券も上海の一部でしか使えなかった[12]。1938年(昭和13年)には華北連合銀行が中国聯合準備銀行と行名を改めるが、日本による法幣駆逐作戦は結局挫折した[12]

一方、蔣介石の国民党から分かれた対日和平派の汪兆銘による南京国民政府は、1939年(民国28年)5月に中央儲備銀行を設立して儲備券を発行し、連合銀行券とともに普及を図り、法幣の排除を試みたが、苦戦した[16][17]。儲備券は乱発され、価格は下落し、荒縄で1メートルほどの厚さに束ねられて使われていたという[16]

八方ふさがりの日本軍は、結局、現地での食糧や資材の調達のための、より手っ取り早い手段である軍票の発行による食料・資材の半強制的な現地調達、即ち富の収奪に走った[16]。軍票とは、軍部が出す借用証書(擬似紙幣)である[16]。日本軍は、日露戦争(1894年-1895年)のときに初めて、これを発行し、以来対外戦争のつど発行してきた[16]。軍票が軍部の出す借用証書に過ぎない以上、他の信用度の高い通貨、当時では法幣や日本銀行券との交換を保証しなければただの紙切れに過ぎない[16]。そのため時々は、これらと交換しないと、信用力が保てず、通用しなくなる[16]。従って、ときに交換に応ずる必要があったが、日本軍は交換財源として、占領した上海税関の資金をこっそりと流用したという[16]。それでも軍票や儲備券は、広大な中国のうち、日本軍の占領した都市とそれらを結ぶ鉄道沿線以外では、見向きもされなかった[16]。軍事力で実効支配できない農村部などではコメを法幣で買い付けるしかないが、その法幣も手元にない[16]ので、日本軍は少しでも多くの法幣を獲得するためアヘンの密売に乗り出していた。

日本軍票や日系銀行券で食糧や資材を現地調達できないとなると、ますます軍事力による強制徴用しかない[16]。貴重な物資が抗日勢力に流出するのを腕ずくで止めるしかないため、戦線はますます拡大した[16]1938年には広東を占領した後、1940年7月には中国の長大な沿岸封鎖に取り掛かった[16]。内陸部では村落を囲い込み、ますます残虐さと苛酷さを増した作戦を展開した[16]。国民革命軍と共産党軍を掃討したあと、村落の住民を組織して課税・徴用した。これを「清郷工作」と呼んだ[18]。電流の流れる鉄条網で囲い、人と物資の移動を厳重にチェックし、それに加え大東亜共栄圏の「東亜新秩序」という思想教育を行った[18]


  1. ^ a b c d e 田村(2004年)2ページ
  2. ^ a b c d 梶谷(2013年)243ページ
  3. ^ a b 梶谷(2013年)248ページ
  4. ^ a b c d 石川(2010年)71ページ
  5. ^ 小島・丸山(1986年)151ページ
  6. ^ a b c d 梶谷(2013年)251ページ
  7. ^ 梶谷(2013年)249ページ
  8. ^ a b c d e f g 田村(2004年)3ページ
  9. ^ a b c d 小島・丸山(1986年)152ページ
  10. ^ a b c d e f g 張(2012年)39ページ
  11. ^ a b c d e f g h 加藤(2007年)193ページ
  12. ^ a b c d e f g h i j 田村(2004年)4ページ
  13. ^ 小島・丸山(1986年)154ページ
  14. ^ a b c d 石川(2010年)72ページ
  15. ^ a b 加藤(2007年)205ページ
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 田村(2004年)5ページ
  17. ^ 石川(2010年)199ページ
  18. ^ a b c d e f g h i 田村(2004年)6ページ
  19. ^ a b c d e f g h i j 田村(2004年)7ページ
  20. ^ a b c 渡辺(2012年)129ページ
  21. ^ a b 渡辺(2012年)130ページ
  22. ^ a b 渡辺(2012年)131ページ
  23. ^ a b c 明治大学ホームページ「登戸研究所とは」
  24. ^ 渡辺(2012年)133ページ
  25. ^ 渡辺(2012年)134ページ
  26. ^ 渡辺(2012年)143ページ
  27. ^ 渡辺(2012年)144ページ
  28. ^ a b c d 田村(2004年)8ページ
  29. ^ a b c d e 田村(2004年)9ページ
  30. ^ 田村(2004年)11ページ
  31. ^ a b c 張(2012年)3ページ
  32. ^ 天児(2013年)30ページ
  33. ^ a b c d e 江副(1985年)7ページ


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