中華思想 意味

中華思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 00:14 UTC 版)

意味

古代漢民族のエスノセントリズム

エスノセントリズム(自民族中心主義)としての中華思想は漢民族を中心としたものであり、中国の皇帝を世界の中心とみなし、天下を代表する「天子」と称す。この皇帝が統治する朝廷の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされる[5]。そのため、異民族や外国の侵入に対しては、熾烈な排外主義思想として表面化することがある[5]

中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し、漢民族の農耕文化が優越であることを意味した[1]春秋戦国時代以後は、「詩経」や「韓非子」「呂氏春秋」などの古典にある「普天之下 漠非王土 率土之浜 莫非王臣」(天下のもの全て、帝王の領土で無いものはなく、国のはてまで、帝王の家来で無いものはいない)という言葉にあるように礼教文化王道政治[5]にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、そのが及んでいない状態であればと称される。からはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しいものとして東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ[1]。この夷の基準は固定的なものではなく、天子のが及び、文化の発展とともに移動する変動的な概念である。

中華とは、華(=文明)の中であり、文明圏を意味する儒教的価値観から発展した選民思想であり、その字義のことである。自らを華(=文明)と美称するにあたって、対比となる夷(=非文明)が華の外に必要となり、すべての非中華が彼らの思想的に夷(=蛮)とされた。

四夷

中華思想の概念図 華と夷の関係は地方の部分として説明できる:地の中心に立つ天子が天のエネルギーを一身に受けとめ、そのエネルギーが、天子の身体から方形をなす地の四方にむけて同心方形を描きつつ水平拡散し、エネルギーのおよぶ範囲が「華=文明」の範域で、エネルギーが尽きるところから外方が、「夷=野蛮」となり、中国では、このような「天地相応」観念にもとづいて、天円地方の「地方」を華と夷に分けてきた[6]

中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた[7][要ページ番号][注 1]

東夷(とうい)
古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本・朝鮮などの東方諸国
西戎(せいじゅう)
いわゆる西域と呼ばれた諸国など
北狄(ほくてき)
匈奴鮮卑契丹韃靼蒙古などの北方諸国
南蛮(なんばん)
ベトナムカンボジアなど東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など

中華世界では、四夷は辺鄙な場所に住んでいるために中華文明の影響と恩恵を受けていない化外の民であり、いずれ中華文明に教化されることによってやがて文明化されていくとされ、中華世界ではこの化外の民を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとされた。特に中華文明を代表する天子としての皇帝は、自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明へと導くと考えられた。民が教育によってとなりうるように、四夷の概念は固定的なものではなく文化の発展とともに移動する変動的な概念であり、孟子はこれを「夏をもって夷を変ずる」と述べている。

そのため、この範囲は時代により異なる上、これらが蔑称かどうか議論がある。例えば「東夷」については孟子に古代の聖王は東夷の人であるという説があり、またの同類とされ習俗が仁で君子不老の国とされており、蔑称かどうか議論がある。蔑称ではないという主張も存在し、外国宛の文書に相手国を「東夷」と記して蔑称であるか、そうでないか問題になったこともあるという[8]

夷狄とする国家、民族、人物に対して良い意味では無い漢字をあてる場合もあり、例として「蒙古」の「蒙」(無知昧)、ヌルハチに対し明王朝が「児哈赤」と「奴」の字をあてたものがあげられる。

現代中国・台湾・日本などでは、これらの言葉は鴨南蛮カレー南蛮等で名前を残す以外、ほとんど死語となっているが、学術的には使われ続けている。

華夏

中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)といわれていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、中国人が自国を誇っていった語であった[5]。そこから、文化の開けた地、(みやこ)を意味した[5]

満洲族が支配層であった清朝を打倒するために中華民族ナショナリズムを構築した章炳麟[9]は、以下の通り、「華夏」を国土の名称・地名でもあり、種族の名称でもあると解説している[10]

我が国の民族は古く、雍、梁二州(陝西、甘粛、四川)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すなわち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰く。その後、人跡の到る所九州に遍(あまね)き、華の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、種族の号ではなかった。

「夏」という名は、実は夏水(河の名前)に因って得たるものなり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付けたもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であり、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるようになった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意味にも使はれているのはそのためである。

また中国の辞典 『辞海[要ページ番号]も、「中華」が民族の名称だけでなく地理的国土的な名称を指すことについて、漢民族の発祥地が黄河流域で、国都も黄河の南北に建てたので、そこが国の中央となり「中原」や「中国」と呼んだとし、「中国」も蛮夷戎狄の異民族とは内と外の関係、地域の遠近を表わすために用いられたとする。


注釈

  1. ^ 以下、竹内の引用する説文解字の説や、歴史上の文献により概略を述べる。

出典

  1. ^ a b c d 百科事典マイペディア[要ページ番号]
  2. ^ a b 華夷思想 - 世界大百科事典 第2版”. コトバンク. 2021年8月28日閲覧。
  3. ^ a b 京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』(初版)東京創元社、1971年3月1日、468頁。 「中華思想」項
  4. ^ 京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』(初版)東京創元社、1971年3月1日、103-104頁。 「華夷思想」項
  5. ^ a b c d e デジタル大辞泉[要ページ番号]
  6. ^ 応地利明「<知の先達たちに聞く(5) : 応地利明先生をお迎えして>大同生命地域研究賞受賞記念講演会 インドと中国 : それぞれの文明の「かたち」」『イスラーム世界研究』第5巻第1-2号、京都大学イスラーム地域研究センター、2012年2月、88-118頁、doi:10.14989/161191ISSN 1881-8323 
  7. ^ 竹内実『中国の思想』NHKブックス、1999年。 
  8. ^ 陳舜臣の説。[要文献特定詳細情報]
  9. ^ a b 黄斌『中国における近代ナショナリズムの受容とネーションの想像 : 章炳麟・梁啓超及び孫文のナショナリズム論を中心に』 早稲田大学〈博士(学術) 甲第3128号〉、2010年。hdl:2065/36274NAID 500000542843https://hdl.handle.net/2065/36274 
  10. ^ 章炳麟『太炎文録』、『中華民国解』
  11. ^ 『荀子』「正論」
  12. ^ 中島隆博『悪の哲学:中国哲学の想像力』筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年。ISBN 9784480015433 pp.194-196.
  13. ^ 後藤多聞『ふたつの故宮』NHK出版
  14. ^ 小島毅『宋學の形成と展開』,東京:創文社,1990。[要ページ番号]
  15. ^ 堀敏一『律令制と東アジア世界』汲古書院、1994年[要ページ番号]
  16. ^ 島田虔次『朱子學と陽明學』東京:岩波書店,1967。[要ページ番号]
  17. ^ 堀敏一『律令制と東アジア世界』汲古書院、1994年[要ページ番号]岡田英弘『中国文明の歴史』講談社、2004年[要ページ番号]日本の東洋史学における通説となっている。[要出典]
  18. ^ 清朝とは何か P.2
  19. ^ 金振雄「日本における「清朝史」研究の動向と近年の「新清史」論争について―加藤直人著『清代文書資料の研究』を中心に」『Quadrante : クァドランテ : 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌』第20巻、東京外国語大学海外事情研究所、2018年3月、169-174頁、doi:10.15026/91617ISSN 1344-5987 
  20. ^ 于紅 2002, pp. 81.
  21. ^ 于紅 2002, pp. 81–82.
  22. ^ 于紅 2002, pp. 85.
  23. ^ 于紅 2002, pp. 87.
  24. ^ 于紅 2002, pp. 88.
  25. ^ 于紅 2002, pp. 89–92.
  26. ^ 于紅 2002, pp. 98–99.
  27. ^ 狩野君山[要文献特定詳細情報]山本七平『現人神の創作者たち』の説
  28. ^ このような朝鮮の態度から中国は朝鮮を「小中華」と呼んだ。小中華という言葉は17世紀に文献上に初出するが、そこには「ああ、我が国は海の辺隅にあり、国土は狭小ではあるが、礼教・音楽・法律・制度、衣冠(身分秩序)・文物(文化の産物)、ことごとく中国の制度にしたがい、人倫は上層ではあかるく、教化は下のものに行われた。風俗の美は中華をひとしくなぞっている。華人(中国人)はこれを称して小中華という。」(『童蒙先習』総論末尾、1699年本、粛宗王序・宋時烈跋文)と書かれている。
  29. ^ 『大越史記全書』本紀2:李太祖 頂天元年(1010年)の「史臣呉時仕日」
  30. ^ 『大越史記全書』本紀5:陳仁宗 紹宝7年(1285)2月
  31. ^ 『大越史記全書』本紀7:陳芸宗 紹慶元年11月15日
  32. ^ 『大越史記全書』本紀3:李仁宗 太寧5年春3月条
  33. ^ a b c d 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  34. ^ 『大越史記全書』本紀19:黎玄宗景治5年<1667>9月条
  35. ^ 論香港人之身份(戴毛畏) - 熱新聞 YesNews
  36. ^ 大中華主義
  37. ^ 大中華膠的懺悔 立場新聞 2018/2/6
  38. ^ 倉田徹、「雨傘運動とその後の香港政治 -一党支配と分裂する多元的市民社会」『アジア研究』 2017年 63巻 1号 p.68-84, doi:10.11479/asianstudies.63.1_68, アジア政経学会
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  42. ^ 金戸幸子、「《書評》林泉忠著 『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス─沖縄・台湾・香港』」 『アジア研究』 2005年 51巻 4号 p.83-87, doi:10.11479/asianstudies.51.4_83, アジア政経学会
  43. ^ 許介鱗, 門田康宏「「台湾独立」の父 : 史明」『植民地文化研究 : 資料と分析』第16号、植民地文化学会、2017年、218-231,180、CRID 1520573330544050816 
  44. ^ “如果統一就是奴役...劉曉波論臺灣、香港及西藏”. 商業周刊中国語版. (2017年7月14日). オリジナルの2017年7月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170716120725/http://www.businessweekly.com.tw/article.aspx?id=20256&type=Blog 
  45. ^ 宮家邦彦『語られざる中国の結末』、PHP新書。その要約





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