中国国分 中国国分の影響

中国国分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/07 09:04 UTC 版)

中国国分の影響

天正12年12月末、秀吉は、輝元の娘を養子の羽柴秀勝に娶せ、毛利氏とのあいだに縁戚関係を結んだ[21]。天正13年(1585年正月、秀吉は毛利氏との境界画定交渉で大幅に譲歩し、南海道方面の攻略戦での協力を要請した。同2月には、小早川隆景にみずからの3月紀州攻めの意向を報じ、分国中のすべての警固船を和泉岸和田に集結している。こののち、毛利氏は、羽柴秀長を総大将とする紀州攻め、四国攻めに協力した。同時に、秀吉政権に深く組み込まれることとなり、天正14年(1586年)、毛利領内の城割(城の破却)が命じられた。天正14年から15年にかけての九州の役でも豊臣秀長にしたがい、五番隊まである秀長軍のうち小早川隆景と吉川元長は二番隊、毛利輝元は三番隊の軍役が課された。なお、吉川元春嫡男の元長は、九州の陣中で死去し、家督は弟広家が継いだ。

秀吉に重用された宇喜多秀家

宇喜多八郎(秀家)は、備中高松城攻め以後、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻めに加勢し、天正13年(1585年)には元服して秀吉の一字を賜り「秀家」と名乗って九州征伐にも参加した。天正17年(1589年)には、秀吉の養女であった前田利家息女豪姫を娶り、豊臣・前田両氏と縁戚関係を結んだ。養女とはいえ、豪姫は、戦国時代にありがちな政略によって即席に縁組した養女ではなく、秀吉夫妻にとっては、幼いころより本当の娘同然に育ててきた愛娘であった。なお、秀家重用のかげには、人質として差し出された秀家の母(ふく)が絶世の美女であったため秀吉は彼女を寵愛し、それゆえ秀家も秀吉の養子となって出世したといわれることも多いが、少なくとも一次史料からはその事実は確認できない[22]

いずれにせよ、このように、毛利・宇喜多の両氏は、豊臣政権下屈指の大名として、特に秀吉との縁戚関係も結んだ西国一、二の大大名として豊臣政権をささえた。文禄4年(1595年)の秀次事件後、毛利輝元と宇喜多秀家、小早川隆景の3名は徳川家康、前田利家、上杉景勝とともに連署する形で「御掟」を発令して大老に列している。なお、隆景死去の慶長2年(1597年)以後、その五人は五大老と呼ばれた(その呼称については異論もあり)。

土地制度の面では、いわゆる太閤検地が全域でおこなわれた。以下に、『日本賦税』に記された慶長3年(1598年)段階での石高(万石)を記す[23]

旧国 山陰道 山陽道 南海道
丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 隠岐 出雲 石見 播磨 備前 美作 備中 備後 安芸 周防 長門 淡路
府県 京都
兵庫
京都 兵庫 鳥取 鳥取 島根 島根 島根 兵庫 岡山 岡山 岡山 広島 広島 山口 山口 兵庫
石高 26 11 11 9 10 4 19 11 36 22 19 18 19 19 17 13 6

検地により、諸大名家の石高が確定して、領主にはそれを基準として軍役が課せられることとなった。さらに、中世的な城郭は城割によって破棄されて各地に近世城郭が築かれるようになった。城下町の多くは、領内の統治に便利で、水陸の交通の便の良い地に多く建設された。各大名は、豊臣政権に組み込まれ、四国攻め、九州征伐では、地理的関係もあって、多く先鋒を務めるなどの重要な役割を担った。そのいっぽう、それぞれ豊臣政権の公認を得て大名権力を強化し、家臣団を整備して近世大名への脱皮をはかり、在地勢力や領民に対した。なお、宇喜多秀家ら各大名は、天正16年4月(1588年5月)の後陽成天皇による聚楽第行幸の際には、関白太政大臣となった秀吉の命令に違背しないことなどを誓い、朝廷位階をうけ、豊臣政権を構成する大名間の序列を受け入れた[24]。行幸当日は九州に在陣していた毛利輝元・小早川隆景・吉川広家らものちに上洛して、豊臣姓としかるべき官位を授けられ、7月末にはそろって参内した。こののち、山陰道・山陽道に領知を配分された大名の多くは天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも参加した。


注釈

  1. ^ 本能寺の変後の和睦条件は、当初織田氏方が要求していた備中備後美作伯耆出雲の5か国割譲に代えて、備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城岡山県岡山市北区)の城主清水宗治切腹というものであった。
  2. ^ 毛利家中で秀吉の信任が最も厚かった小早川隆景は、四国攻めののちの四国国分伊予一国35万石をあたえられて秀吉の直臣大名として取り立てられ[13]、さらに九州征伐後の九州国分では、筑前国筑後国および肥前国一部の計37万石に加増された。九州転封後の隆景は、筑前名島城福岡県福岡市東区)を本拠とした。
  3. ^ しかし、その直後に養父にあたる小早川隆景が隠居して、家臣団とともに安芸三原(広島県三原市)に移ったため、秀秋はその後を継いで筑前名島の城主となった。なお、隆景はその際、秀吉から筑前国内に5万石という破格の隠居料を拝領している。
  4. ^ 四国攻めののち、蜂須賀正勝の子蜂須賀家政阿波国徳島城徳島県徳島市)18万石、九州征伐ののち黒田孝高は豊前国中津城大分県中津市)17万石、浅野長政は若狭国小浜城福井県小浜市)8万石の大名となった。

出典

  1. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.201
  2. ^ a b 熱田『天下一統』(1992)p.202-203
  3. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.204
  4. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.137
  5. ^ a b 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.172
  6. ^ a b c d 日置『鳥取県の歴史』(1997)p.140
  7. ^ 藤田『謎とき 本能寺の変』(2003)p.161-162
  8. ^ 太閤検地石高(『日本賦税』『当代記』など。徳川旧領5か国、信濃は上杉領の川中島4郡を除く)。
  9. ^ 豊臣家において石田ら子飼い家臣と、秀勝・秀保ら一門の石高は蔵入地222万石とは別のため、豊臣家勢力は徳川を凌駕している。
  10. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  11. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  12. ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」(2003)p.76-77
  13. ^ 内田(2003)『愛媛県の歴史』p.153
  14. ^ 仮里屋(赤穂)6万石の生駒親正が讃岐へ転封された事による。
  15. ^ 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.175-176
  16. ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179
  17. ^ a b 水本『京都府の歴史』(1999)p.218-219
  18. ^ a b c 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180-p.181
  19. ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180
  20. ^ 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179-p.180
  21. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.142
  22. ^ 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.189-192
  23. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.286 および『決定版 図説・戦国地図帳』(2003)p.126 より作表
  24. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.158
  25. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.342
  26. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.343
  27. ^ a b 河合「西軍決起の謎」(2000)p.170-171
  28. ^ a b 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.51-62
  29. ^ 周防国も含む(一城令で岩国城を破却。幕末に政庁を山口に移す。)
  30. ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の『毛利家御前帳』にも同様の石高が記載。 慶長18年(1613年)、36万9千石に高直し。


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