ポール・ブラウン (アメリカンフットボール) ポール・ブラウン (アメリカンフットボール)の概要

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ポール・ブラウン (アメリカンフットボール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 06:08 UTC 版)

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 ポール・ブラウン
Paul Brown
1952年のフットボールカードでのブラウン
基本情報
生年月日 (1908-09-07) 1908年9月7日
没年月日 (1991-08-05) 1991年8月5日(82歳没)
出身地 アメリカ合衆国
オハイオ州ノーウォーク
経歴
高校 マシロン・ワシントン高校
(オハイオ州マシロン)
大学 マイアミ大学 (オハイオ州)
所属歴
コーチ歴
1930–1931 セヴァーン学校
1932–1940 マシロン・ワシントン高校
1941–1943 オハイオ州立大学
1944–1945 グレートレイクス海軍
1946–1962 クリーブランド・ブラウンズ (HC)
1968–1975 シンシナティ・ベンガルズ (HC)
エグゼクティブ歴
1946–1962 クリーブランド・ブラウンズ
1968–1991 シンシナティ・ベンガルズ
受賞歴・記録
その他受賞・記録(コーチとして)
AAFCチャンピオン:4回 (1946–1949)
NFL優勝:3回 (1950, 1954, 1955)
AP通信NFL最優秀コーチ賞 (1970)
NFL100周年記念チーム
クリーブランド・ブラウンズ・リング・オブ・オナー
ヘッドコーチとしての通算成績
レギュラーシーズン 159–180–5 (.469)
通算成績 159–180–5 (.469)
Coaching stats at PFR

生い立ち

オハイオ州ノーウォークに生まれたブラウンは、9歳のときに家族とともにマシロンに転居した。ホイーリング・アンド・レイクエリー鉄道の発車係だった父のレスターは「非常に几帳面で、真面目で、極めて厳格」な性格で、それらはすべて後のブラウンのコーチングに対するアプローチに反映されている。ブラウンは1925年にオハイオ州マシロンのマシロン・ワシントン高校を卒業し、在学中に学校代表チームで、伝説のフォー・ホースメンの一人Harry Stuhldreherに倣ってクォーターバックとしてプレイした[1]オハイオ州立大学に新人クォーターバックとして入学したが、145ポンド(65.8kg)の体格ではメジャーカレッジフットボールの世界でやっていくのは厳しいことに気づかされ、マイアミ大学(オハイオ)へ転校した。チェスター・ピッツァーコーチのもとで2年間プレイし、1928年シーズンにAP通信によるオール=オハイオ・スモールカレッジ・セカンドチームに選出された[2]1930年、教育学の学士号を取得し、1940年にオハイオ州立大から教育学の修士号を受け取った。

ハイスクールおよびカレッジでのコーチングキャリア

彼の大学卒業証明書が示すように、ブラウンはコーチであると同時に教師の資格も持っていた。彼は1930年にローズ奨学制度の資格を得たが、高校時代からの恋人ケイティー・ケスターと結婚しており、1929年世界恐慌が起こっていたため、働かなければならなくなった。彼のコーチングキャリアは1930年にメリーランド州セヴァーナにあるセヴァーン学校(当時は海軍兵学校プレパラトリースクール)の教師兼コーチとして雇われたことにより始まった。

ワシントン高校タイガーズ

セヴァーンでの2シーズンを16勝1敗1分で終えたブラウンは、23歳になった1932年に母校マシロン・ワシントン高校タイガーズのヘッドコーチに就任した。マシロンでは9年間で35連勝を含む80勝8敗2分の成績を収めた。彼は最初の3年でチームを強豪に育て上げたが、因縁のライバルであるカントン・マッキンリー高校には勝つことができず、3度の対戦は全て15点差以内で敗北していた[3]。しかしその後の6試合はマッキンリーに勝利を収め、以降の全60試合で58勝1分けとし、1935年から1940年の6年連続でオハイオポール・ハイスクールフットボールチャンピオンに選出された。ブラウンのこの業績が後押しし、高校には20,000人収容の新しいスタジアムが建設され、オハイオ州内において、オハイオ州立大を除く他のどのフットボールの試合よりも多くの観衆が観戦に訪れた[4]

ブラウンが導入したシステムは、ピッツバーグ大学のヘッドコーチジョック・サザーランドが考案した技術をもとにしていた。サザーランドはブラウンが幼少のころマシロン・タイガーズ・クラブのプロフットボール選手としてプレイしており、コーチになっても成功を収めていた。ブラウンはあらゆる状況を想定し、詳細な練習プログラムを作成し、アシスタントコーチ(ブラウンは「ポジションコーチ」と呼んだ)それぞれの仕事を明確にし、そしてマシロンの中学校に彼のシステムを完全に導入させ、新入生が入部してきた時に彼のシステムをすでに理解しているようにした。

オハイオ州立大学バックアイズ

オハイオ・ハイスクールフットボールコーチ協会や後にパデュー大学ヘッドコーチになるトレド・ウェイト高校のジャック・モレンコフの熱烈な支持をうけ、ブラウンは1941年1月14日オハイオ州立大学バックアイズのヘッドコーチに就任した。ブラウンのもと、バックアイズは1941年から1943年にかけて18勝8敗1分の成績を収めた。ブラウンの選手たちは、スピード、インテリジェンス、およびコンタクトの強さで知られるようになった。彼のチームの遂行力とファンダメンタル技術の高さから、彼はオハイオ州で「プレシジョン・ポール」(Precision Paul、精密ポール)と呼ばれた[5]

彼のオハイオ州立大での最初のシーズンは6勝1敗1分で、ランニングバックオットー・グレアム(後にクリーブランド・ブラウンズのクォーターバックとして10シーズンプレイし、全てのシーズンでチャンピオンシップに出場し、そのうち7回優勝した)を擁するノースウェスタン大学ワイルドキャッツに敗退し、ミシガン大学ウォルバリンズと引き分けた。オハイオ州立大はウェスタンカンファレンスで同率2位になり、APランキング13位でシーズンを終え、ブラウンはナショナル・コーチ・オブ・ザ・イヤーではフランク・リーイ、バーニー・ビーアマンおよびアール・ブライクに次いで4位に選出された。

翌1942年シーズンは18名の優秀な選手が卒業および第二次世界大戦の兵役のため抜けることになったにもかかわらず、ブラウンは3人の4年生、16人の3年生、および24人の2年生で構成されたバックアイズを率いて9勝1敗の成績を収め、初めてNCAAナショナルチャンピオンシップに選出された。選手の中にはレス・ホルヴァースと4人のマシロン卒業生がおり、そのうちの2人リン・ヒューストンとトミー・ジェイムズは後にクリーブランド・ブラウンズでプレイした。唯一の敗戦はロードでのウィスコンシン大学マディソン校バジャーズとの試合で、マディソンへの鉄道移動中に不衛生な水のせいでチームの大部分が赤痢に罹ってしまったことから「バッドウォーター・ゲーム」(Bad-Water Game)と呼ばれるようになった。

ブラウンは1942年にオハイオ史上もっとも素晴らしい1年生チームをリクルートしたと評判になったが、その全員を兵役にとられてしまった。1943年、ミシガンやパデューのような学校がV-12海軍カレッジトレーニングプログラムの一部に組み込まれている間、オハイオ州立大は、陸軍の陸軍特別トレーニングプログラム(ASTP)と提携したためにハンディキャップを負うことになった(訓練生は大学のスポーツに参加することを許されなかった)。ビッグ・テン・カンファレンスは1943年に特別戦時免除を公布し1年生がフットボールをすることを許可したが、オハイオ州立大にとってそれはエルロイ・ハーシュのような選手を起用する、より年長でより大きな(軍およびカレッジ両方の)チームと競い合わなければならないことを意味した。1943年、「ベイビーバックス」は5人の復帰選手とナショナルチャンピオンチームからの1人、1942年入学生が6人、そして33人の17歳の新入生で構成され、3勝6敗だった。

1944年2月、ブラウンは選抜徴兵制度(Selective Service System)においてクラス1-Aに再分類され、1944年4月12日アメリカ海軍中尉として従軍した[6]。彼はグレートレイクス海軍基地に配属されブルージャケット(海軍兵)・フットボールチームのヘッドコーチになった。他の部局チームやカレッジプログラムチームと戦い、大戦の最後の2年間に15勝5敗2分の成績を収めた。この5敗のうちのひとつは1944年10月9日にオハイオ州立大に敗れたものである[7]




  1. ^ Jack Park (2002). “Paul Brown: The Organization Man (1941-1943)”. The Official Ohio State Football Encyclopedia. Sports Publishing LLC. pp. p.182. ISBN 1-58261-006-1 
  2. ^ Park, op.cit. p.182
  3. ^ Park, op.cit. p.183
  4. ^ Park, op.cit. p.183
  5. ^ Park, op.cit. p.182
  6. ^ Park, op.cit. p.218
  7. ^ Park, op.cit. p.222
  8. ^ Park, op.cit. p.228
  9. ^ a b Franchise nicknames”. PRO FOOTBALL HOLE OF FAME. 2008年9月29日閲覧。
  10. ^ Flank M. Henkel (2005). Cleveland Browns Hsitory. Arcadia Publishing. pp. p.10. http://books.google.com/books?id=EYYa7ITAFecC&pg=PA10&lpg=PA10&dq=%22brown+bombers%22+cleveland&source=web&ots=_bYmwiqfku&sig=IJjHkF2NvkJLfGigqLfAeltBBe4&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=9&ct=result 
  11. ^ Bill Levy (1965). Return to Glory: The Story of the Cleveland Browns. The World Publishing Co.. pp. p.106. LCCN 65023356 
  12. ^ Robert Vare (1974). Buckeye: A Study of Coach Woody Hayes and the Ohio State Football Machine. Harper's Magazine Press. pp. p.73-76. ISBN 0-06-129150-1 
  13. ^ America's Game, by Michael MacCambridge, 2005, pg. 137
  14. ^ Levy, op cit, p.186-187.
  15. ^ Levy, op.cit. p.188
  16. ^ Sam Farmer (Dec 22, 2006, D.1). Living Legend. Los Angeles Times 
  17. ^ Michael Lewis (2006). The Blind Side. W.W. Norton. pp. pp.96-7 
  18. ^ Famous Ohio Gravesites”. Ohio Living and Travel Magazine. 2006年12月20日閲覧。


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