クリーブランドとの離別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 06:08 UTC 版)
「ポール・ブラウン (アメリカンフットボール)」の記事における「クリーブランドとの離別」の解説
1963年1月9日、ブラウンの契約打ち切りがアート・モデル(1961年にクラブを買い取っていた)をはじめ過半数のオーナーの支持により決定された。決定に至る議論は地方紙のストライキ中に進行し大きな物議を醸すことはなかった。クリーブランドのスポーツライター、フランク・ギボンズはその解雇について、「ターミナルタワー(クリーブランドで一番高いビル)を倒すようなものだ」と語っている。 モデルとブラウンは最初から対立していた。モデルがクラブを買収してまもない1961年12月に、ブラウンはモデルに知らせずにワシントン・レッドスキンズとトレードを行った。ブラウンの取引は1961年にハイズマン賞を受賞したシラキューズ大学ランニングバックのアーニー・デービスの獲得権を得るものだった。しかし、そのトレードがブラウンのクリーブランドでのキャリア終焉の始まりになった。デービスは1962年の最初のトレーニングキャンプ中に白血病と診断された。医師がデービスはNFLでの活動に耐えうる身体を持っていると保証したにもかかわらず、ブラウンがデービスにプレイさせないと決めたとき、ブラウンとモデルの対立は悪化した。逆に言えばモデルは、デービスにプレイさせることに関してその危険を顧みなかった。結局、コーチとオーナーの関係は修復されることはなく、アーニー・デービスはプロの試合でプレイすることもなかった。そして1963年5月18日に病気で死去した。 30年間コーチを務めた後に流浪の身になったブラウンは、その後5年間サイドラインから離れ、ブラウンズと関わることはなかった。彼は契約が残っていた5年間ブラウンズから給与小切手を受け取り経済的には安定していたが、クラブの株式のおよそ6パーセントを保持するだけでは飽き足らず、欲求不満は年々高まっていた。ブラウンがまだ年俸を受けとっており、ゴルフを好んでいたので、ゴルフで彼より多くのお金を儲けたのはアーノルド・パーマーとジャック・ニクラスの2人だけだと(冗談で)言われた。 解雇されてから数か月後、ブラウンがフィラデルフィア・イーグルスを買収するオーナーシップグループの一員になるという噂がながれたが、正式に契約が結ばれることはなかった。1966年、ブラウンは所有していたブラウンズの株式を売却し、シンシナティにアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)フランチャイズを誘致するためオハイオ州知事ジェームズ・A・ローズと行動をともにした。
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