ナナ・ムスクーリ ナナ・ムスクーリの概要

ナナ・ムスクーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 16:01 UTC 版)

夫のジョルジュ・ペツィラスと(1971年)

名前

姓の Μούσχουρη はラテン文字に翻字すると Moúskhouri で、ギリシャ語の発音としては「ムスフーリ(ムスホゥーリ)」[ˈnana ˈmusxuri] である。ただし、Mouskouri という表記で活動しており、日本語表記もそれに倣っている。

概要

1934年10月13日クレタ島に生まれた。子供時代は「ナナ」というあだ名で知られていた。

全世界で300万枚以上のレコード、450枚のアルバムを発売し、15言語(ギリシア語フランス語英語スペイン語イタリア語ドイツ語ラテン語ポルトガル語日本語など)で約1500曲の歌を発表した。また、世界中で230以上のゴールドおよびプラチナディスクを記録している。世界で最も、レコードの売り上げが多い歌手の一人であり、その売り上げ枚数は、2億3000枚以上ともいわれる。

クラシックの素養に裏打ちされた歌唱力もあって、持ち歌のレパートリーは大変広く、ジャズからポップス、クラシック、ギリシャ音楽からラテン、各国の民謡童謡まで、オールラウンドにこなす。ヒット曲は「愛」をテーマにしたものが多く、憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出しているといわれている。1960年代からレコードをリリースし続けており、その市場はヨーロッパ南北アメリカ韓国を中心としたアジアオーストラリアニュージーランドなど世界中に広がっている。中東でもコンサートが企画されたことがある。

その一方で、EU議会では過去にギリシャ代表として政治活動も行い、また現在もユニセフの親善大使を務めており、各地で平和を訴えるコンサートを行っている。

若年期

ムスクーリ一家はクレタ島に住んでいた。彼女の父親・コンスタンティーヌは、地元の映画館に映写技師として、母親・アリスも同じ所で、女子案内係として働いていた。ナナが3歳の頃に、家族でアテネへ移る。両親は、ナナと姉ジェニーを、名門のアテネ音楽学校に通わせようと、仕事に励んだ。

彼女は、6歳ごろから音楽の才能を示していた。また、生まれつき声帯の膜が一つしかなかったという(通常は二つ)。これが、彼女の話すときの嗄れ声と歌うときの音域の広さを生み出している。なお、2歳年上の姉ジェニーも、親からオペラ歌手になることを期待されていたという。

当時のギリシャはナチスの占領下にあり、父親・コンスタンティーヌは、反ナチス運動に加わっていた。そんな貧しい生活の中で、彼女は12歳から歌唱のレッスンを受けていた。家庭の財政は非常に厳しく、レッスン料が払えないほどであった。しかし先生は、彼女に才能があることを見込んで、無料でレッスンをしてくれたという。また、彼女は当時、ラジオを通して、フランク・シナトラエラ・フィッツジェラルドビリー・ホリデーエディット・ピアフなどを好んで聴いていた。

1950年、アテネ音楽学校に入学する。ナナはピアノ科と和声科を専攻し、自身の歌っていたオペラクラシックを熱心に研究した。そんな中、1958年に、友人からジャズをやってみないかと勧められ、アルバイトでジャズを歌い始める。ナイトクラブなどで歌を披露し、ラジオにも出演するようになった。しかし、これらの活動が、音楽学校の教授にばれてしまい、学校から追放されてしまう(このころ、アテネ音楽学校では、ジャズを音楽でないように扱っていたとされている)。かくして、オペラ歌手になるという彼女の夢は閉ざされた。

歌手活動

1957年に、ギリシャ語と英語で録音された「Fascination」で、レコードデビューを果たす。翌1958年には、作曲家のマノス・ハジダキスと出会い、歌声を評価され、ハジダキス作曲の「Kapou Iparchi Agapi Mou」を発表し、初のチャート1位を獲得。その名が知られるようになった。その後も好調なセールスを見せ、パリのレコード会社・フィリップスフォンタナと契約を結んだ。

1962年ジョルジュ・ブラッサンスオランピア劇場で共演。

1963年には、生活の拠点をパリへ移す。同年のユーロビジョン・ソング・コンテストでは、ルクセンブルクから出場。ここで「À force de prier」を披露し、高い評価を獲得。この曲で、フランスのGrand Prix du Disque(フランス・ディスク大賞)を受賞した。

また同年、国連難民救済機関(現在のUNHCR)からチャリティー企画された、『All Star Festival』というLPアルバムに参加し、「Ximeroni」を収録した。このアルバムには、ルイ・アームストロングモーリス・シュバリエナット・キング・コールビング・クロスビードリス・デイエラ・フィッツジェラルドエディット・ピアフマヘリア・ジャクソン、カテリーナ・バレンテ、アン・シェルダン、パティ・ペイジなどそうそうたるアーティストが名を連ねている。

1965年、2枚目の英語アルバム『Nana Sings』を、クインシー・ジョーンズのプロデュースにより、アメリカでリリースする。ハリー・ベラフォンテは、これを大いに評価した。これをきっかけとしてナナは、彼の北米ツアーに参加した。またライブデュオアルバム『An Evening With Belafonte/Mouskouri』を発表する。このときのツアーにおいて、ベラフォンテが、ナナのトレードマークであるメガネを、舞台上で掛けないよう彼女に注意した。ナナはこれに大きな不満を抱いたという。結局、ベラフォンテは折れて、彼女の考えを認めた。これ以前にも、フランスのプロデューサーらが、彼女をメガネなしの流行アイドルとして売り出そうとしたが、ナナ自身がメガネは自分の一部であると主張して、これを断固拒否した。

1967年フランスでアルバム『Le jour où la colombe』を発売する。このアルバムでは、「Le temps des cerisesさくらんぼの実る頃)」といったフレンチポップの曲も披露し、大きなヒットを記録した。同年には、パリのオランピア劇場に、ジルベール・ベコーの前座として3週間共演した(1969年以降は自身のステージとして、オランピア劇場では何度も公演をしており、ここでのコンサートの模様が収録されたレコード・CDも数多くリリースされている)。このころ、長男ニコラスを出産した。メガネをかけながら身重でオランピアのステージに立った。

その頃、イギリスBBCのプロデューサー、イヴォンヌ・リトルウッドにスカウトされて、BBCの番組『Presenting Nana Mouskouri』『Nana and guests』の司会を務めた。1969年には、アルバム『Over and Over』をイギリスでリリースし、2年間ヒットチャートに残るほどの大ヒットを記録した。

1974年にはニュージーランド、オーストラリア、日本(中野サンプラザ)を廻るツアーを行った。

1979年に発表した、英語のアルバム『Roses and Sunshine』は、ニール・ヤングボブ・ディランジョン・デンバーなどの音楽性を下地にして、フォークカントリーソングの要素をとりいれている。このアルバムは世界中でヒットし、特にカナダで高い評価を得た。

1981年のアルバム『Je chante avec toi Liberté』の「Nabucco de Verdi ,Song for liberty, Libertad, Je chante avec liberte(『ナブッコ』行け我が想いよ、金色の翼に乗って、自由よ私はお前と唄う)」も、フランスで高評価を得たあと、各言語に翻訳され、世界中でヒットになった。

1984年には、故国における初の公演を行うため、ギリシャに戻った。このコンサートはDVDとしてリリースされていて現在も入手できる。

1985年、BBCのテレビシリーズ用に「Only Love(オンリーラブ)」をレコーディングし、イギリス音楽チャートの1位に登りつめた。また、フランス語バージョンの「L'Amour en héritage」も大ヒットした。同年には、スペイン語のシングル「Con Todo el Alma」もリリースし、スペインアルゼンチンチリで大成功を収めた。

1987年には、韓国、台湾シンガポール香港マレーシアタイなどのアジアで、コンサートツアーを行った。

1988年、古典オペラなどを収録した2枚組アルバム『The Classical Nana(別名:Nana Classique)』を発売した。古典的な曲に着目した作品である。




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