インドネシアの歴史 ヒンドゥー化と仏教の伝来

インドネシアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 18:23 UTC 版)

ヒンドゥー化と仏教の伝来

古マタラム王国期のプランバナン主寺院

紀元前1世紀の頃からはインド洋を渡ってインドの商人たちが訪れるようになり、ヒンドゥー教の影響を受けた独自の文化が発展し始め、5世紀頃から、ボルネオ島東部にクタイ王国、西部ジャワタルマヌガラ王国が繁栄し始める。クタイ王国は、インドからマカッサル海峡、フィリピン、中国に抜ける交易ルートに位置していたためにインドからの船が寄航し中継貿易の利で繁栄したと思われる。

535年クラカタウが噴火。535年から536年の異常気象現象英語版の原因となった。

7世紀ジャワ島西部にスンダ族スンダ王国英語版669年1579年)を建国。 7世紀から11世紀にかけてスマトラ島南部パレンバンを本拠とするシュリーヴィジャヤ王国7世紀-13世紀)がマラッカ海峡を制圧し、南海貿易をコントロールし仏教文化が栄え繁栄を極めた。

ジャワでは、8世紀前葉に古マタラム王国シャイレーンドラ朝8世紀-9世紀)が建国された。シャイレーンドラにより8世紀末から9世紀初めにジャワ島の中部に建設されたボロブドゥール寺院は、底部の一辺が120m、高さ約42mという巨大な大乗仏教の石造ストゥーパである。カンボジアベトナム南部のチャンパ王国まで遠征したという説があるが、もともとインドネシア半島にいたオーストロネシア系の人々を指すとする見解が近年は有力である。

古マタラム王国は、10世紀初め頃まで続き、壮大なヒンドゥー寺院であるプランバナン寺院群を建設した。

929年には、東部ジャワにクディリ王国が建国され、交易の利権をめぐって、ダルマヴァンシャ王がシュリーヴィジャヤの覇権に挑んだが、結局1016年にダルマヴァンシャが殺害されて、シュリーヴィジャヤの勝利に終った。しかし、1025年に南インドを支配していたチョーラ朝ラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けたことで衰退することになる。

マジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダテラコッタ・マスク。

その後、ジャワでは、1222年ケン・アロク英語版によって、シンガサリ朝が建国された。最後の王クルタナガラのとき、モンゴル帝国元朝の使者が来たが、その顔に刺青を入れて送り返したので、元の大ハーン皇帝クビライは報復として大軍を派遣した。ジャワ島は元の遠征(モンゴルのジャワ侵攻)で被害を受けたが、やがて元軍を撃退したラデン・ウィジャヤ英語版1292年マジャパヒト王国を建国した。

マジャパヒトは、名宰相ガジャ・マダのもと、14世紀から15世紀にかけて繁栄した。1365年に完成させた古ジャワ語の韻文叙事詩英語版『デーシャワルナナ Desawarnana(地方の描写)』(通称『ナーガラクルターガマ英語版 Nāgarakertāgama(聖なる教えによって完成された王国))』は、ジャワ島東部を本拠として今日のほぼインドネシア全域、フィリピンの一部やマレーシアを含めた広大な版図を支配したとする。これは史書の筆法に過ぎず、それぞれの地域に一時的に影響力を行使した可能性は残るものの、これらの領域を同時に支配したわけではない[要出典]


  1. ^ 深見純生「古代の栄光」、池端編、山川出版社、1999年、18-19頁。
  2. ^ 石井・桜井、講談社、1985年、26-27頁。
  3. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、明石書店 2008年 8ページ
  4. ^ 弘末雅士「交易の時代と近世国家の成立」、池端、1999年、94-95頁。
  5. ^ 今永清二「ジャワのイスラム化に関する一試論」、『史学研究』177号、1987年9月、1頁。
  6. ^ トメ・ピレス 『東方諸国記』、岩波書店<大航海時代叢書Ⅴ>、1966年、305頁。
  7. ^ 今永、同上、9-10頁。
  8. ^ 今永、同上、2頁。
  9. ^ 弘末、同上、95頁。
  10. ^ Robert van Niel, The Emergence of the Indonesian Elite, Dordrecht and Cinnaminson : Foris Publications, 1984.
  11. ^ 永積昭「ブディ・ウトモの成立と発展 -ジャワの民族的自覚の源流- (1)・(2)」、『史学雑誌』76巻2号、1967年2月、76巻3号、1967年3月。
  12. ^ 永積昭「オランダにおけるインドネシア留学生の活動(1908-17年)- 「インドネシア協会」成立前史 - 」、『アジア経済』18巻3号、1977年3月。
  13. ^ サレカット・イスラーム(イスラム同盟)については次の深見純生の研究を参照。深見純生「成立期イスラム同盟に関する研究 - イスラム商業同盟からイスラム同盟へ - 」、『南方文化』2号、1975年9月、同「初期イスラム同盟 (1911-16) に関する研究 (1)・(2)」、『南方文化』3号、1976年10月、同4号、1977年7月。
  14. ^ こうした方針を立てたのは、東インド社会民主主義連連盟結成に携わったオランダ人社会主義者スネーフリートの発案によるものであった。のちにスネーフリートは、中国における共産党と国民党の連携(国共合作)にも携わった。
  15. ^ 永積昭 『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会、1980年、229-230頁。
  16. ^ 1928年10月27日から28日にかけて開催されたこの会議は、この組織が1927年に発足してから2回目の会議だった。この会議にはジャワ人青年だけでなく、東インド各地に結成された青年組織(青年スマトラ同盟、青年アンボン)やムスリム青年組織、そしてオランダから帰国した留学生たちも加わった。永積昭、1980年、254-261頁。
  17. ^ Abdulkadir(2012)p.6
  18. ^ Taufik.(2009)p.4
  19. ^ a b Abdulkadir(2012)p.7
  20. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、264ページ
  21. ^ この点、オランダ政府も2005年に至り、インドネシアの独立日が1949年12月27日ではなく、1945年8月17日であることを認める表明を行った(http://www.thejakartapost.com/news/2005/08/18/dutch-govt-expresses-regrets-over-killings-ri.html )。
  22. ^ 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房1993年、127頁、脚注26。
  23. ^ 深見純生・早瀬晋三「脱植民地化の道」、池端編、1999年、374頁。
  24. ^ 首藤、同上、118頁。
  25. ^ 深見・早瀬、354-375頁、増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社1971年、237-238頁。
  26. ^ 首藤、同、149頁。なお、ハーグ協定ではオランダ女王の首長としての地位は象徴的なものとされ、オランダ政府にも具体的な権限はなかった。
  27. ^ この1955年選挙についての分析は、Herbert Feith, The Indonesian Elections of 1955, Cornell Modern Indonesia Project, Cornell University Press, 1957、を参照。
  28. ^ プルメスタ(Permesta - Perjuangan Semesta = 全体闘争)は西スマトラを中心にした反中央政府運動。1958年2月に革命政府の樹立を宣言し、これにはマシュミインドネシア社会党の有力指導者も加わっていた。これに呼応して東インドネシアでも運動が広がった。
  29. ^ 首藤、同、168-169頁。
  30. ^ その後、スカルノ失脚後の1969年に西イリアンで住民投票がおこなわれ、西イリアンはインドネシアに帰属することが決まった。
  31. ^ 後に反政府側に、ラスカー・ジハード英語版も加わった。
  32. ^ スカルノが国連脱退を決意した直接の原因は、1965年1月からマレーシアが国連安保理非常任理事国になることが決まったことへの不満が挙げられる。インドネシアの国連脱退は、中国、北ベトナム北朝鮮などに支持され、インドネシアはジャカルタプノンペンハノイ北京平壌を枢軸とする共産主義諸国との紐帯を強化していった。その後、インドネシアは中国からの経済・技術援助のみならず、軍事援助も受けていくことになった。永井、1986年、301-303頁。
  33. ^
    これらに先立ち、1963年2月、インドネシアは国際オリンピック委員会 (IOC) からも離脱している。
    1962年8月にジャカルタで開催された第4回アジア競技大会で、インドネシア政府がイスラエル中華民国台湾)の選手団にビザを発行しなかったことで、IOCがインドネシア政府を非難し、同国のオリンピック参加資格を停止するとしたため。首藤もと子「ガネフォ」、石井米雄監修『インドネシアの事典』、同朋舎出版、1991年、110頁。
  34. ^ 三平則夫「マクロ経済の成果」、安中章夫・三平則夫編 『現代インドネシアの政治と経済 -スハルト政権の30年- 』、アジア経済研究所、1995年、200-203頁。
  35. ^ 永井、1986年、381頁。白石隆「国軍 -その世代交代と変貌- 」、安中・三平編、同上書、106-107頁。
  36. ^ 大形利之「ゴルカル -スハルトと国軍のはざまで- 」、安中・三平編、同上書、146-152頁。
  37. ^ Taufik.(2009)p.5
  38. ^ 建物多数が海中に沈む インドネシア地震被害『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月13日夕刊 3版 15面
  39. ^ 松井和久「ハビビ新政権の特徴」、尾村敬二編 『緊急リポート スハルト体制の終焉とインドネシアの新時代』、アジア経済研究所<アジ研トピックリポート>、1998年
  40. ^ 鏡味治也「地方自治と民主化の進展 バリの事例から」、杉島敬志中村潔編 『現代インドネシアの地方社会 ミクロロジーのアプローチ』、NTT出版2006年、89頁。
  41. ^ 笹岡正俊 『流血のマルク インドネシア軍・政治家の陰謀』、インドネシア民主化支援ネットワーク、2001年 ISBN 490664094X 。
  42. ^ 高橋奈緒子ほか著 『東ティモール 奪われた独立・自由への闘い』、明石書店<明石ブックレット7>、1999年 ISBN 4750312215





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