アストル・ピアソラ アストル・ピアソラの概要

アストル・ピアソラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/17 01:34 UTC 版)

アストル・ピアソラ
Astor Piazzolla
アストル・ピアソラ、1971年
基本情報
出生名 Astor Pantaleón Piazzolla
生誕 1921年3月11日
出身地 アルゼンチン
マル・デル・プラタ
死没 (1992-07-04) 1992年7月4日(71歳没)
アルゼンチン
ブエノスアイレス
ジャンル タンゴ
職業 バンドネオン奏者、作曲家
担当楽器 バンドネオン
活動期間 1931年 - 1990年

生涯

バンドネオン奏者時代まで

ピアソラは1921年アルゼンチンマル・デル・プラタにイタリア移民三世[2]として生まれる。四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごす。この頃既にジャズに親しんでいたが、当初はバンドネオンやタンゴへの興味は薄かったという。1931年ブロードウェイのラジオ局でバンドネオンのフォルクローレを録音し、以降ステージやラジオなどの演奏を行うようになる。1932年に処女作『42番街に向けて着実に』を作曲している。

アルゼンチンに移住後、父が経営を始めたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏していたが、1938年にラジオで先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知る。1939年に当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として徐々に頭角を表す。また、1940年から5年間、アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論を学ぶ。音楽理論を得たピアソラは総仕上げとして「ピアノ・ソナタ」など、クラシカル作品を残した。

1944年にトロイロ楽団を脱退後、自らの楽団を率いて活動を開始、先鋭的なオーケストラ・タンゴを展開するが同時にタンゴの限界にも行き当たり、楽団を解体した後しばらく裏方活動に徹するようになった。なお古典的なタンゴの作・編曲やクラシック作品の製作はこの頃に集中している。

パリ留学とタンゴ革命

1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリナディア・ブーランジェに師事する。当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。

1955年7月に帰国後、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成、前衛的な作風に保守的なタンゴファンから猛攻撃を受け「タンゴの破壊者」と罵られるほどだった。さらには命を狙われたことも幾度かあったという。結果楽団としては成功せず、いくつかのアルバム録音を残した後に1958年、新天地を求めて家族で古巣のニューヨークに移住する。ニューヨークでは歌手の伴奏などを行ったほか、実験的なジャズ・タンゴと称する編成を組んだ。

1959年に父の死に捧げた代表作『アディオス・ノニーノ』を作曲する。翌年帰国後に初演。バンドネオン、ヴァイオリンピアノコントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成し、以後これがピアソラの標準的グループ構成となる。

五重奏団以降

これ以後のピアソラは理想的な音楽編成を求めて数多くの楽団の結成・解体をくり返す。1963年には新八重奏団、1971年 - 1972年には九重奏団、1978年 - 1988年には後期五重奏団、1989年には六重奏団へと次々変化した。これらピアソラの楽団に所属することはサッカー王国アルゼンチンでナショナルチームに所属することと同じほどの名誉だったとされている。

やがて、ピアソラは自身の家系のルーツというべきイタリアへ移住。ジェリー・マリガンとの共演作や、イタリア在住時代の傑作 リベルタンゴ をはじめとする作品を製作する。

しかし、1973年の心臓発作による休養や1988年の心臓バイパス手術など、健康面に不安を見せながら傑作の数々を残している。1990年パリの自宅で脳溢血により倒れ闘病生活に入る。大統領専用機でアルゼンチンに帰国。1992年ブエノスアイレスの病院にて死去。71歳。

2017年には、フランスとアルゼンチン合作でドキュメンタリー映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴスペイン語版)』が製作されている。

ピアソラの音楽

1970年ごろ

ナディア・ブーランジェはピアソラの原点はあくまでタンゴだと指摘した。しかし、一方で少年時代のニューヨーク生活などの経験から、タンゴ奏者でありながらもタンゴを外から眺める目もまた持っていたと指摘される場合もある。

元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。ピアソラはそこにバロックフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出した。これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価されたため、タンゴの評論家から意図的に外されるといった差別も受けた。

ブーランジェが教えた技法は主にフランスで考案された和声や対位法であり、アルゼンチンタンゴの中核をなすドイツの家庭音楽[3]や新音楽とは、「20年先をいった」と称されたピアソラの感性はやや本流から逸れていた。アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団[4]の中で、全員が挙手した楽団はフリオ・デ・カロカルロス・ディ・サルリオスバルド・プグリエーセアニバル・トロイロアルフレド・ゴビオラシオ・サルガンの六つで、ピアソラはラウル・オウテーダ[5][6]から票を貰うことができなかった。ただし、クラシック現代音楽の演奏家からは評価が高く、ギドン・クレーメル[7]やロベルト・ファブリッチアーニらが好んで演奏していた。イヴァ・ミカショフのタンゴ・プロジェクトはピアソラの成功から編み出されたものである。

現在ではピアソラと対立した多くの音楽家がこの世を去っていることもあり、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績はアルゼンチンのしがらみをはるかに超えて、国際的に高く評価され続けている。一方、このような活動の展開はアルゼンチン・タンゴの本流ではない、という厳しい意見も根強く残っている。多くの楽団が「後継者」を多く抱えているのに対して、ピアソラ・スタイルは後継できないという意見もあるが、生前ピアソラが唯一後継者に指名したのはフランスのリシャール・ガリアーノのみである。

エドゥアルド・ロビーラとは対照的に国際的な影響力があまりにも大きすぎたせいでかなりのレコード会社が版権を手放しておらず、正規の復刻作業は遅れており散発的にCD-BOXが発売されてもすでに販売されているCDと重複することが多い。現在はChant du MondeやMembranの選集が比較的安価に手に入るが、Astor Piazzolla – Completo En Philips Y PolydorやClub Tango Argentinoからの復刻版も貴重なピアソラの記録である。

ただ、ピアソラはその絶大な人気のために多くの「書き譜」がピアノギターバンドネオンほか多くの楽器編成のために残され、ダリエンソとは対照的にピアソラスタイルを表面的に模倣した録音が多くある。近年は改めてピアソラの初期作品(ピアノソナタ)をクラシックの演奏家が挑戦するなど、タンゴの普及という点に関しては世界で最も成功した音楽家といえるだろう。タンゴの音楽家は自分の癖や味を他人に教えないため、書き譜に本当のことが書かれていないことが大半である。(プグリエーセ楽団の譜面にプグリエーセスタイルのイントネーションは一切書かれていなかった。)しかし、ピアソラはこれを几帳面に楽譜化しており、楽譜を読める演奏家ならだれでも弾けるという状況を作った。


  1. ^ Dissertations. Spring 5-2008. Instrumental Tango Idioms in the Symphonic. Works and Orchestral Arrangements of Astor. Piazzolla.”. aquila.usm.edu. 2019年3月20日閲覧。
  2. ^ イタリア系アルゼンチン人
  3. ^ バンドネオンはもともとそのために考案された楽器である。
  4. ^ 雑誌「中南米音楽」の臨時増刊号「タンゴのすべて2」
  5. ^ 著名なタンゴ評論家で著書もある。
  6. ^ オウテーダに関する資料
  7. ^ ピアソラだけで8枚組のCDがある。このCDの1枚目は国際的に大成功で、社会現象とまで言われた。
  8. ^ LALO SCHIFRIN 1951 -1965”. www.dougpayne.com. 2015年12月13日閲覧。
  9. ^ ピアソラ”. webcache.googleusercontent.com. 2019年3月20日閲覧。


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