芸人時代
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大学3年生の秋、朝日新聞紙上に桂三枝師匠のインタビュー記事が掲載され、『落語に限らず、お笑い好きの若者集まれ!』という一文を目にした後輩に勧められるまま、桂三枝創設の“お笑い維新塾”に応募。『息子の家庭教師にちょうどええ』という三枝師匠のひとことで、4年で大学を卒業することを条件に合格。その後、お笑い維新塾二代目の塾長を務める。同門同期に、浪漫亭ロミオ(現在の吉本新喜劇で緑のヤクザを演じる中條健一)、幹てつや、高杉二郎、また、一期下に尾崎小百合(現在のかつみさゆりのさゆり)がいる。今で言う、高学歴芸人の走りであるが、当時は、大学を出て芸人になるだけで大変な時代。同じく京都大学の後輩を連れて、元祖京大卒漫才師として活躍し始めるも、『漫才やっていることが親にバレた』という理由で引退する後輩を引き止めることができず、ピンで活動を続けるが、芽が出ることはなかった。
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芸人時代
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このような紆余曲折を経て、とうとう1993年3月31日にお笑いコンビとしてのピーピングトムとなった。その1ヵ月後に、渡辺プロダクションで「犬とサラリーマン」というネタで初のネタ見せを行う。今村曰く「少しウケた」という。翌年の1994年にオールナイトフジ・リターンズの若手芸人勝ち抜きコーナーで5週勝ち抜きを達成。また、新宿ビブランシアターでアンバランスとの合同コントライブを行う。 1995年、NHK新人演芸大賞の演芸部門大賞で東京代表としてノミネートされる。 1996年、原宿クエストホールで東京GAG FACTORY公演を行う。 1997年7月14日、桑原が自転車に乗っているときに交差点で交通事故に遭う。足に20針を縫う大怪我であった。その2ヵ月後には相方の今村も交通事故に遭った。桑原が退院後は、多摩大学(原千晶と共に)や島根大学などの学園祭にゲストとして呼ばれた。この年に初めて単独のトークライブを行った。 他に、「のぞき屋ダイナマイト」(のち「暗闇の目撃者」)というキャッチコピーで『タモリのボキャブラ天国』シリーズなどに出演。いわゆるイケメンキャラでホストのような容姿で人気があったが(番組内では実際にホストクラブからスカウトされたと暴露)、ベスト10の壁は厚く評価は得られなかった。特に交友が深かったのはプリンプリンとBOOMER。この間とても仲が悪かった時期があり、同居していてもほとんど口を利かなかった。そのため今でも他人から関係を聞かれる。 現在は、桑原がワタナベコメディスクールでワタナベコメディスクールデビュー推進部及び講師を務めており、今村が放送作家の仕事をしていることから、コンビでの仕事は少ない。現在のレギュラー番組はゼロ。ワタナベエンターテインメントの公式ホームページにも載っていない。
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芸人時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:24 UTC 版)
高校卒業後は、就職を希望したが、成績の悪さから就職先が見つからないため、担任教師が吉本興業に雇ってくれるよう頼み込んだ事で、高校在学中からアルバイトとして吉本に入社。放課後や休日に、なんば花月の裏方(幕引きや進行)を務める。明石家さんまとはこの頃に出会っており、ある日、出番を控えた中田ボタンを呼びに行くのを忘れており、ボタンから冗談で男性器にタコ糸で括ってこいと言われて叱責されたのを真に受け、階段の手摺に本当にタコ糸で括り付けて反省していたところを女性芸人やスタッフを含めた関係者に目撃され、悲鳴を上げられる。この時にさんまと偶然出会い、タコ糸をほどいたが、それを機にジミーは助けられた犬のようにさんまに付いていったという。一方、ジミー本人は、早見優の弟子になりたくて吉本に行ったが、早見優は吉本所属ではないことを伝えられ、せっかく来たので吉本に入れてくださいと頼み研究生として入れてもらったと話している。 高校卒業後に正式に吉本に芸人として入り、さんまの勧めによりぼんちおさむに弟子入り。当時の憧れは間寛平だった。吉本新喜劇などを経て「おおにしこにし」という漫才コンビを結成したが、どうしてもジミーだけが目立ってしまうため長続きしなかった。「ジミー」という芸名は、さんまがテレビで視た野生のゴリラの名前(ジミー)に因んで名付けたものである。ちなみに、さんまがジミー大西と芸名を名付けた直後にテレビを見ると、前述したゴリラのジミーが死んだというニュースが始まった。そのため、さんまは「ジミーは死んだゴリラの生まれ変わり」と発言している。 おさむ門下時代は伸び悩んでおり、吉本から半ば見捨てられている存在だったが、運転手にならないかとさんまに誘われ、以降さんまが自身の付き人として面倒を見るようになる。ジミーは運転免許を持っておらず、そこでさんまに『2週間で免許が取れる合宿制の自動車教習所があるから行ってこい』と言われ、合宿制の自動車教習所に通った。実技試験は難なく合格したものの、漢字が読めず筆記試験に通らなかった為1ヶ月たっても卒業できず、試験に落ちるたびにさんまにお金を送ってもらっていたという。結局ジミーは、免許を取るまで半年掛かった。さんま曰く、『車がもう1台買えたわ』。 さんまによって才能を引き出され、数々の一発ギャグを身に付けていく。吉本社員の「売れるわけがない」という発言は、さんまのモチベーションに繋がった。この運転手時代に、料金所で車の窓を開けるのを忘れて手を窓に思いっきりぶつけて骨折してしまった、渋滞に捕まりさんまは「やけにこんどるなあ」と言いよく見たら前の車は路上駐車中だった、ワイパーの動きを見ていると眠くなり居眠り運転をしそうになった、さんまが車を運転中誘導を頼まれたがぶつけてしまい、ぶつかってからも「オーライオーライ」と言い続けた、笑っていいともの生放送当日に道に迷い、さらに電話の電源を切ってしまい、スタッフに迷惑をかけた等のエピソードがある。 特に、人から決まった言葉を振られた後に返すタイプのギャグが有名。「ジミーちゃんやってる?」と振られたあとの「やってる、やってるぅ」や、「ジミーがんばれよ」と振られたあとの「お前もがんばれよ!」、股間を触られたときに発する「ふるさとー」または「エクスタシー」など。これらのギャグが評判となり、天然ボケ芸人として全国的に人気を博した(「やってる、やってるぅ」のギャグ誕生当時は、手を股間付近で動かしていたが、さんまにそれはまずいと言われ、顔の付近で動かすようになった)。 ある時、突如として芸人引退を決断したことがある。そのことを喫茶店でさんまに報告したところ、「この(芸人の)世界を辞めるのか続けるのか一週間しっかり考えてこい」と言われた。さんまや周囲の人間は「一週間もあれば気が変わるだろう」と考えていたが、実際に一週間後に意思を確認したところ、ジミーは「ストリッパーのヒモになります」と宣言。その返答にさんまは口を開けて啞然としていたが、反対にその場にいた大竹しのぶは終始冷静で、喫茶店で注文したパスタを巻いた手を止めて「今なんていった?」と言いながらも、「ストリッパーに知り合いはいるの?」と質問をした際に、ジミーはやりたい事を見つけて応援してくれていると勘違いして急に声を上げて号泣し始め、その返答に「なんでやねん...お前俺の運転手してた6年間返せ...」と呆れられたというエピソードがあった。 芸人として絶頂期を迎えていた1996年(平成8年)頃に、テレビ番組の企画によって絵画の才能を見出され、画家の道を歩むことになった。松本人志は引退に際し「もったいないなぁ。誰も勝たれへんで!他に辞めなあかん奴いっぱいおんのに」とジミーの才能を惜しんだ。またビートたけしも、さんまのフリに確実にギャグで返すジミーに対して「パブロフの犬の様な条件反射はすごいな!」と絶賛している。 元祖天然ボケの伝説を持つ。萩本欽一はジミーを自身の番組「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」に起用したが、「このボケが意図的であればチャップリン以来の天才喜劇役者だ」とジミーの芸を絶賛し、萩本と1対1で面談することになった。しかし、楽屋から出てきた萩本の第一声は「天然だったね…」というがっかりした声であった。これが、「天然ボケ」という言葉の由来であるといわれている。月亭方正も、初対面でジミーと2人きりになった時に、方正が何を聞いても、ジミーは「ウホッ、ウホッ」としか話さなかったと述懐している。 異常に嗅覚が鋭く、番組の企画の「たくさん並べられたスリッパの中から女子アナの履いたスリッパを当てる」というゲームで警察犬と対決し、見事勝利した。また絵画修業で赴いたアフリカでは、広大な平原を徘徊しているアフリカゾウを臭いで探し当てた。 1996年、尊敬する上岡龍太郎から自身の絵画を褒められたこと、岡本太郎から「君は画家になりなさい」と手紙をもらったことをきっかけに、画家として生きていく事を決意し芸能活動を引退、画家に転向する。
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