日本航空123便墜落事故とは? わかりやすく解説

【日本航空123便墜落事故】(にほんこうくうひゃくにじゅうさんびんついらくじこ)

1985年昭和60年8月12日夕刻日本発生した旅客機墜落事故
墜落したのは日本航空のB747SR-46型旅客機登録番号はJA8119。

事故の経緯

同機大阪・伊丹空港行き123便として羽田空港から離陸したが、フライト中に本来の飛行コース外れ群馬県多野郡上野村高天原山(たかまがはらやま)の山中墜落乗客・乗員524人中520人が死亡した
これは現在、単独航空機による事故としては世界最多犠牲者数である。
犠牲者には当時国民的歌手プロ野球チーム運営会社社長など、複数著名人含まれていた。

また、この事故発生時に関係諸機関混乱状態に陥った事でも知られる

などの理由から現場発見大きく遅れたとされる

事故原因

当該事故機は以前伊丹空港着陸失敗した経緯がある。
この時、滑走路機体後部接触するしりもち事故』が発生し客室周囲圧力隔壁損傷
にも関わらず修理担当したボーイング社隔壁未修復のままの機体日航返還してしまった。
結果通常運航蓄積した金属疲労によって垂直尾翼油圧操縦システムなどが破損
飛行中操縦不能状態に陥り、そのまま墜落至った

以上が、公式に発表され事故の原因である。
しかし、これに対して異論を唱える声が当時からあり、それに関する書物いくつか発表されている。


日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 02:03 UTC 版)

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年昭和60年)8月12日月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。日航ジャンボ機墜落事故とも[1][2]


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注釈

  1. ^ 「46」は日本航空に割り当てられたボーイングのカスタマーコード
  2. ^ JA8119の機種であるボーイング747-100SRは国内線用機材であるが、国内線だけでなくグアム線などの近距離国際線にも間合いで使用されていた。
  3. ^ 乗客から預かった防寒具類やウェディングドレス等を、シワのないきれいな状態で輸送する際に使用するハンガー付きの小部屋。
  4. ^ そもそもコートルーム棚下への積載はボーイングによる禁止事項であり、化粧室ドアの不具合はJA8119以外の機でも数件、グアム便だけで発生していた。
  5. ^ Pre-Recorded Announcement。自動放送される乗客への指示アナウンス。与圧異常時は自動でマスクを落とし、「ただ今、緊急降下中、マスクを付けて下さい。ベルトを付けて下さい。タバコは消してください。ただ今、緊急降下中です」という放送が流れる。
  6. ^ 当時は客室内で喫煙が可能だった。
  7. ^ 着水するまでは救命胴衣を膨らませないというマニュアルがあるが、生存者によれば、膨らませていた乗客も居たという。
  8. ^ 当時のCVRは30分の1/4インチ・エンドレステープであったが、30分を超える録音が残っているのは、テープに余分があったためである[20]
  9. ^ 報告書には「ドーン」という爆発音が一度で表されているが、音は「ガコン」に近い音が連続して3度記録されている。
  10. ^ フジテレビ系のドラマ『8.12 日航機墜落20年目の誓い~天国にいるわが子へ~』の取材によると、伊豆急行線河津駅のバスターミナル付近で客待ちしていたタクシー運転手2名がこの爆発音を聞いたと証言している。
  11. ^ 客室高度警報音と離陸警報音は同じ音なので、離陸警報音が鳴動したという説もある。
  12. ^ エンジンと電気系統は無事だった。
  13. ^ 事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。
  14. ^ 当時は中部国際空港関西国際空港富士山静岡空港神戸空港はいずれも未開港。当時の松本空港南紀白浜空港は滑走路長がそれぞれ1500m・1200mしかなく、大型機の着陸は困難である。また名古屋空港も市街地や住宅街の中心にあったため、海に近く仮に墜落しても被害を最小限に食い止められる羽田への帰還を選択したとされる。滑走路が長い航空自衛隊浜松基地(全長2250m)に緊急着陸する選択肢はなかった。
  15. ^ 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はなかった。
  16. ^ 油圧が使えない場合、電動でギアを降ろすことができる。
  17. ^ 横田基地まで24kmの距離だった。
  18. ^ CVRには41分頃、機長の「あたま(機首)下げろ、そんなのどうでもいい」という発言が記録されている。
  19. ^ ラジオ磁気指示計(RMI)のVOR受信アンテナは垂直尾翼の頂上付近に埋め込まれており、垂直尾翼が破壊された際に回線が切断されたと推測されている。
  20. ^ 報告書では「一本から松(カラマツ)」と仮称している[報告書 9]
  21. ^ 報告書では「U字溝」と仮称している[報告書 9]
  22. ^ 機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされる。
  23. ^ そもそも航空機には「○○山から○○メートル」というような正確な位置情報はほとんど必要がなく、TACANの計測は誤差がつきものだったという[23]
  24. ^ 東京電力(現 東京電力パワーグリッド)より現場付近には50万ボルトの高圧線があるため注意があったという[26]
  25. ^ 実際の墜落現場も三国峠から北西に2.9kmの群馬県側であった。
  26. ^ 河村一男は「救難活動はチームワークであって個人のスタンドプレーは必要ない」との方針のもと、第一発見者の所属や個人を敢えて特定せず、「期せずして皆で発見」としたという。自衛隊指揮官も「ヒーローは作らず」という考えで同じ気概であったという[40]
  27. ^ 跡地は藤岡公民館となり敷地内には「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑が建てられた。
  28. ^ 1995年9月25日付のテレビ朝日「ニュースステーション」特集「ジャンボ機墜落事故 幻の御巣鷹山救出劇・日米同時取材で関係者が明らかにした新事実とは……」で在日米軍最高幹部が「自衛隊が米軍の救難を断った」と取材に答えたと報じた[61]
  29. ^ 「いわれなき批判に反論する」は、1985年9月16日「月曜評論」(自衛隊内週刊紙)で掲載後、1985年9月26日「朝雲」(自衛隊内新聞)に転載された論説。
  30. ^ アメリカ側は事故当初、テロ事件の可能性が高いと考えジョージ・サイドレンを派遣したが、爆発物等の痕跡が見つからなかったこと、また日本の調査団との関係が悪化したためサイドレンに変えてロン・シュリードを派遣したという[70]
  31. ^ 昇降舵(エレベータ)や方向舵(ラダー)などは蝶番式に固定されている箇所を軸にして動く構造になっていて、舵の反対側に付けられている重しがウエイトバランスである。飛行中の風圧でバタつくのを防ぎ、動きが滑らかになる[74]
  32. ^ 「まつゆき」は、石川島播磨重工業東京第1工場で1984年(昭和59年)10月25日進水し、1986年(昭和61年)3月19日の就役前だった。
  33. ^ BS(ボディステーション)とは機体の胴体位置を示す番号。2200は機体最後部R5とL5ドアよりやや前の位置にあたる。
  34. ^ 国際機関の事故調査マニュアルでは、生存者有無の確認が終わった後は、証拠保全のために遺体を動かさないように定められている[77]
  35. ^ 22日の調査終了後、米国調査官から日本の調査官に「隔壁の中継ぎ板の一部が短い。リベット付近をよく調べた方がいい」と知らされ、図も書いて示してもらった。その後、日本の調査官は図を見ながら問題とされる箇所を調べたが、塗料で覆われていたり修理工程を知らないこともあって、長らく判別できなかったという[79]
  36. ^ 顕微鏡で観察する際、対象物が大きくステージに載せられない場合は、シリコーン樹脂のパテなどで複製して観察する手法をとる。
  37. ^ 米国調査団はその後数回、現場に入っては疲労痕があると思われる圧力隔壁の破断面のレプリカを採取し、米軍のヘリで東京へ運んだ後、当日中に航空便でワシントンのNTSB本部に送っていた。疲労痕がうまく写らないこともあり、NTSB本部からレプリカ採取のやり直し指示もあったという[79]
  38. ^ アメリカ合衆国では、航空宇宙産業において刑事事件(責任)は追及せず、事故原因を探求した方が安全性が向上し、結果として多数の幸福に繋がるという考えによるが、日本の事故調査委員会はボーイング社の修理担当者への聞き取り調査を行っていない。
  39. ^ 事故調査委員会の年間予算は1984年度(昭和59年)2,700万円であり、事故後政府の予備費から2億2,400万円が追加計上されたが、限られた予算の中で原因究明のための試験や研究が山積しており、世間の批判に応えて優先度の低い課題に調査費をかけられない事情があった[103]
  40. ^ NASAがスペースシャトル設計のために開発したソフトウェア。
  41. ^ B747では飛行方向を変えるのに普段はエルロンを使い、ラダーは使わないという[115]
  42. ^ 海水面に安全に着水するには、対気速度200ノット (370 km/h) 以下でないと着水時の衝撃で機体が大破する可能性が高い。
  43. ^ ただし、シミュレータ試験を行ったのは海面に近づくまでで、実際に着水するところまでは行っていない。着水する場合はギアを収納するが、事故機は油圧を喪失していたため収納することができなかった。この時の衝撃荷重や機体強度に関するデータが無いためであった[116]
  44. ^ 聴聞会は事故調査に漏れがないかを確認する目的で行われる。
  45. ^ 佐藤は本事故で娘を失った遺族のひとりでもある。
  46. ^ JALでは、T(飛行前点検)、A、B、C、H(ホスピタリゼーションの頭文字を取った大規模整備)の5種類の整備を設定しており、C整備は飛行時間3,000時間毎に実施している。
  47. ^ 推定した亀裂長から、リベットやストラップによって隠された部分を除いた長さ[122]
  48. ^ 曲線の形を決める定数[122]
  49. ^ 事故調査報告書では、不確かなことは書かないという方針により、以下のように記載している。
    (1) 断定できる場合…「認められる」
    (2) 断定できないが、ほぼ間違いない場合…「推定される」
    (3) 可能性が高い場合…「考えられる」
    (4) 可能性がある場合…「可能性が考えられる」「可能性があると考えられる」
    本事故の原因について、「推定される」を使用しているため、「断定できないが、ほぼ間違いない」場合にあたる[解説 3]
  50. ^ ただし、NTSBが勧告した対象はB747に限定された。123便に起きた破壊(操縦システム配線や配管が集中する箇所での構造破壊による操縦システム全喪失)は機種に関係なく起きる可能性がある[129]
  51. ^ エアライン・ハンドブックでは20,000ftでの有効意識時間は5~10分となっている。
  52. ^ 時速36kmで走るバイクの風を身体で受けた程度。
  53. ^ 当該機のエアコンは高度24,000フィートの気圧では、3分程度で機内の空気と同じ量の空気を供給する能力がある。
  54. ^ 通常の飛行でもエルロンやラダーで旋回を入れただけで、1.0程度のGは検出されるという。
  55. ^ 国際民間航空条約第13付属書により、事故調査資料は関係者以外には公開されないと定められている。
  56. ^ 当時の司会のうつみ宮土理が夏休み休暇中のため、代役を務めた。
  57. ^ 同行していた坂本のマネージャーの小宮勝廣(マナセプロダクションマネージャー)も犠牲になった。
  58. ^ 坂本はかねてより日本航空の企業体質を批判しており、航空機での移動の際は全日空を使っていたが、お盆の混雑時期で全日空の予約が取れず、止む無く日本航空にしたという[156]
  59. ^ 現在は経営統合して阪急阪神ホールディングスの傘下。
  60. ^ 特に、セントラル・リーグの場合は全球団が東海道・山陽新幹線で移動可能な範囲内に収まっているためその傾向が強いが、セ・パ交流戦や地方開催の場合はこの限りではない。
  61. ^ 事故当時、明石海峡大橋瀬戸大橋神戸空港はいずれも未開業。
  62. ^ 大西はがまかつ社と当時テスター契約を行っていた。
  63. ^ 当時、京急空港線穴守稲荷駅(新)羽田空港駅の間は未開業で、同路線の終着駅は(旧)羽田駅(現:天空橋駅)であり、さらに地上区間だった。
  64. ^ 当時は未だ衛星中継システム (SNG:Satellite News Gathering) が導入されておらず、フジテレビは墜落現場からヘリコプターに中継電波を飛ばし、ヘリからテレビ局に伝送する「ヘリスター」と呼ばれるシステムを使って伝送した。墜落現場に100キログラム以上ある中継機材を担ぎ上げ、中継に成功した[196]
  65. ^ 13日の『いいとも!』は『テレフォンショッキング』のみの放送となり、レギュラーやゲストはエンディングにのみ登場した。
  66. ^ 本事故で父親を失ったダイアナ湯川が演奏する曲が背景音楽として使われている。
  67. ^ 本事故が発生するまで、単独機の航空事故で世界最多の死亡者数であった。
  68. ^ JAL123便墜落事故の発生後、自分のシミュレーター訓練の際に、エンジン出力の調整だけで操縦することを試みていたとされる



日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 00:52 UTC 版)

黒沢丈夫」の記事における「日本航空123便墜落事故」の解説

1985年昭和60年8月12日1856分、日本航空123便墜落事故が発生した。既に駐在所経由依頼来ていたが、同日23時25分、群馬県警察警察本部長河村一男から「県内墜落した可能性が高いから協力してほしい」との電話を受ける。翌13日4時55分(陸上自衛隊ヘリコプターによる現場影像撮影開始時刻)、墜落現場上野村山中であることが判明した上野村は、救援自衛隊機動隊および報道陣受け入れ態勢に当たり、現地消防団員派遣した。この時の黒沢村長の指揮ぶりは、迅速適切で見事なものであったという。 当時身元確認班長となった群馬県警察飯塚訓は、黒沢有事に際して落ち着いた対応や、日本航空側と遺族側の双方信頼される名村長ぶりについて言及し遺族対する優しい心遣いには、零戦外地の露と消えた部下戦友を、どこか日本航空機の被害者にだぶらせているのではないか感じた、と記している。上野村では御巣鷹の尾根霊地として守り中心地墓所慰霊の園」を建設した以後毎年8月12日慰霊の園慰霊祭が行われている。

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日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:38 UTC 版)

ボーイング747型機の機体損失事故」の記事における「日本航空123便墜落事故」の解説

1985年8月12日羽田から伊丹向かっていた日本航空123便で、飛行中機体後部破壊損傷し操縦不能に陥った32分間飛行続けたものの、群馬県上野村付近の山中に墜落した乗員乗客520人が死亡、4人が負傷ボーイング社修理ミスにより後部圧力隔壁金属疲労によって破壊されたことが原因とされる単独航空機としては航空史最悪事故となった。(B747SR-46, JA8119)

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日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:51 UTC 版)

チャイナエアライン611便空中分解事故」の記事における「日本航空123便墜落事故」の解説

1985年8月12日、B747。本事故同じくしりもち事故後の不適切な修理作業

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