唯物論の歴史
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インドにおける唯物論とは一般にチャールヴァーカおよびローカーヤタ(順世)を指しており、彼らの著作としては8世紀後半の『タットヴァ・ウパプラヴァ・シンハ』が残るのみであるが、他にバラモン哲学や仏教やジャイナ教の諸文献に、彼らの思想内容への言及やそれに対する批判が数多く残されている。それらの資料から推察するにその批判は、真の実在は地・水・火・風の四元素のみだとし、身体や感覚器官なども四元素の集合に対して人為的に名称をつけたまでである、とし、知覚のみが唯一確かなpramana(認識手段)であるとし、人が目指し得る最高の目的は解脱でも天界でもなく、ただ現世における最大限の快楽に尽きる、との主張に基づくものであった。 「唯物論」と言う呼び名は、17世紀西欧に遡る。17世紀末、ライプニッツは、すべての実体を物体的なものであるとするエピクロスにならう者たちを『materialistes』と呼び、デモクリトス主義者やホッブスの名をあげ、不敬を醸成する者たちとした。同時に、自然学において目的因を認めない機械論的哲学や原子論を、敬虔であろうとする姿勢にとって危険なものとした。 古代ギリシャ哲学において、レウキッポスの原子論を承けたデモクリトスは、決定論的原子論を展開した。知覚・思考を含めて万物を原子論的に説明したと伝えられている。宗教批判と快楽主義で知られるエピクロスは、経験主義的立場からデモクリトスの決定論を緩和した理論を展開した。彼らの著作は断片しか残らず、ディオゲネス・ラエルティオス著『哲学者列伝』、ルクレティウスの哲学詩『事物の本性について』が、後世に概要を伝えた。これらの著作は、ルネッサンス期にラテン語に翻訳され、哲学に新風を吹き込むものとして西欧知識人の間で受け入れられた。 17世紀、フランスの哲学者ガッサンディは、キリスト教と融和を図ったエピクロス的原子論を展開する。イギリスの哲学者ホッブスは『リヴァイアサン』を著し、生命を物体的なものとし、国家もまた人によって作られた人工的人間に過ぎないとして、政治・社会を論じ、ローマ・カトリック教会を批判した。 18世紀、自然科学の進展により目的因による説明は衰退する。啓蒙時代、フランス唯物論(英語版)の系譜が生れる。生理学的知見の増加を背景にして、思考なども脳の働きとして説明できるとするラ・メトリは、『人間機械論』を著した。またディドロらは『百科全書』を企画し、教条的・キリスト教的学問体系に抗して、知識を経験主義的に関連付ける立場を採った。その後、エルヴェシウス『精神論』、ドルバック『自然の体系』等が、こうした思想を詳述した。 19世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは、唯心論も唯物論も共に事態の一面を見ているに過ぎないとし、感覚も類的性質を持ち生理学のみでは解けないとした。その後、ヘーゲル学派は宗教にたいする見方をめぐって分裂し、フォイエルバッハは、ヘーゲルを批判して、神性とは人類の本質の反照であるとする唯物論を展開した。フォイエルバッハの現実的人間主義の立場を受け継いだマルクスとエンゲルスは、従来の人間機械論的あるいは生理学的な唯物論はその時代に制約されたものであったとして、ヘーゲルの弁証法を継承した唯物論を展開した。これを弁証法的唯物論という。 19世紀は後に「科学の世紀」と呼ばれるほどの自然科学の発達した時代であり、K・モレスコット(1871~95)、J・フォークト(1822-93)、ルートヴィヒ・ビューヒナーらは、自然科学的な知のみを体系化することによって哲学は不要になると主張するようになった。他方、弁証法的唯物論の立場をとったソビエト科学アカデミーは、モレスコットらの生理学的な唯物論は浅薄で俗流の唯物論であると結論づけた。 日本では、西欧思想の紹介・導入時期には、「物質学」「実質学」と訳されていた。19世紀後半、精神主義的思想の確立を図る者たちによって “唯物論” という訳語が定着される。社会主義的・共産主義的思想に随伴したものではない本格的論考は、20世紀、第1次世界大戦後、私費留学生たちが帰国するようになってのち、現れるようになった。1932年に結成された唯物論研究会において、戸坂潤らは物質を基底的とする唯物論を唱えた。しかしながら戦時色が強まった1938年2月12日、唯物論研究会は解散。同会機関誌『唯物論研究』は同年3月号をもって廃刊となった。
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