なごや‐グランパスエイト【名古屋グランパスエイト】
名古屋グランパスエイト
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:24 UTC 版)
「ドラガン・ストイコビッチ」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説
1994年 6月13日、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の名古屋グランパスエイトと年俸(7ヶ月分)5,000万円で契約し、マルセイユには移籍金9,000万円が支払われた。大物外国人として騒がれたゲーリー・リネカーが十分に活躍できなかったこともあってか、ファンやマスコミはストイコビッチを懐疑的な目で見る者も多かった。7月16日の浦和レッドダイヤモンズとのプレシーズンマッチでチームデビューし、8月10日の2ndステージ開幕戦のサンフレッチェ広島戦でリーグ戦デビューしたが、試合開始18分で2枚のイエローカードを提示され、散々なデビュー戦となった。豪雨の中での試合となった9月17日のジェフユナイテッド市原戦ではリフティングドリブルで観客の度肝を抜き、さらに移籍後初得点となる直接フリーキックを決めてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた。9月21日のジュビロ磐田戦では加入後初の2ゴールを決めて勝利したが、9月23日にゴードン・ミルンが監督を辞任し、三浦哲郎が暫定監督に就き指揮を執ったが、2ndステージは最下位に終わった。かねてより後任監督に推薦していたアーセン・ベンゲルが1994年11月に監督に就任したため、半年間だけの在籍という予定を変更し、年俸5,500万円で契約を更改した。12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置が一部解除されたため、代表の新キャプテンとして12月23日に行われたブラジルとの親善試合に出場した。 1995年 開幕からしばらくは下位に低迷した。ストイコビッチ自身も判定に対する苛立ちから審判に食ってかかり、出場停止が明けては退場処分を繰り返し、負けが続いたチームの足を引っ張った。しかし、5月の中断期間に行ったキャンプでベンゲルの戦術が再確認され、1stステージは15勝11敗(中断期間後は9勝1敗)の4位でシーズンを終えた。ベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多の得票を集めて選出された 2ndステージ開幕戦のジュビロ磐田戦では1得点3アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。ファンは彼のプレーに魅了され、応援団のコールで叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わった。ヴェルディ川崎との直接対決に敗れて優勝は果たせなかったが、17得点29アシストの活躍を見せ、得点王の福田正博に大差をつけてリーグ最優秀選手に選ばれた。天皇杯ではヴィッセル神戸や鹿島アントラーズを退けて決勝に進出し、決勝ではサンフレッチェ広島に3-0で快勝して優勝を果たした。 1996年 1996年初の公式戦となったゼロックス・スーパーカップでは横浜マリノスと対戦し、2-0で快勝してタイトルを獲得した。彼自身は3ステージ連続でリーグ開幕戦に得点し、チームは開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速して1stステージを10勝5敗の6位で終えた。5月26日にはキリンカップにユーゴスラビア代表として出場し、キャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した。 2ndステージ途中、9月28日の柏レイソル戦をもってベンゲルが監督を退任したが、最終的には21勝9敗で2位という好結果を残した。ベンゲルは退団の際、契約が切れるストイコビッチをアーセナルに連れて行くことを熱望し、アーセナルでのプレーの役割、獲得予定の選手について説明するなど、何度も説得を試みた。また本人もアーセナル移籍について考えたが、9月12日にはクラブとの契約を2年延長して残留を選んだ。10月30日のV川崎戦では中村忠に頭突きを見舞い、3試合の出場停止処分を言い渡された。Jリーグチャンピオン・ファイナルで優勝し、MVPに選ばれた。11月にはアジアカップウィナーズカップに出場して準優勝した。 1997年 3月2日、サンワバンクカップのD.C. ユナイテッド戦では1得点2アシストの活躍でMLS王者を下した。しかし、リーグ戦では前年の快進撃が嘘のように歯車が噛み合わず、7月9日の横浜マリノス戦では提示されたイエローカードを逆に主審に突きつけ、審判を侮辱する行為だとして4試合の出場停止処分を受けた。ナビスコカップでは準決勝に進出したが、リーグ戦の1stステージは12位、2ndステージは5位、天皇杯は東京ガスサッカー部に敗れて初戦敗退と振るわなかった。1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には毎回日本から駆け付け、1位通過はスペインに許したが、プレーオフではハンガリー相手に2試合合計12-1で大勝して本大会出場を決めた。 1998年 1stステージは試合ごとの浮き沈みが激しかったが、終盤の追い上げで3位に順位を上げて幕を閉じた。制裁措置解除後初の国際大会出場となった1998 FIFAワールドカップグループリーグのドイツ戦は2-2の引き分けに終わったが、ストイコビッチを中心とした華麗なパス回しでピッチを支配し、自身も1ゴールを決めて、一時は2-0と優勢に試合を進めた。決勝トーナメント1回戦のオランダ戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストするフリーキックを蹴ったが、ロスタイムに決勝点を決められて敗れた。ワールドカップ期間中には欧州のクラブへの復帰が噂された。8月16日に行われたJリーグオールスターサッカーでは同点となる得点を決めたほか2点目と3点目の起点にもなり、2年連続でMVPを受賞した。セカンドステージも優勝争いからは早々に脱落。天皇杯は準決勝で清水エスパルスに敗れた。 1999年 1999年には呂比須ワグナー(ベルマーレ平塚より)、山口素弘、楢崎正剛(いずれも横浜フリューゲルスより)の3人の日本代表クラスの選手が加入し、リーグ戦初優勝が期待された。3月6日、アビスパ福岡との開幕戦では3年ぶりにヘディングで得点を決め、幸先の良いスタートを切ったが、3月24日には北大西洋条約機構(NATO)による母国ユーゴスラビアへの空爆が開始され、それが6月10日まで続いた。それまではできる限り政治的な発言は控えて来たが、3月27日の神戸戦後に「NATO STOP STRIKES」(NATOはユーゴスラビアへの空爆を止めよ)というアンダーシャツを見せて空爆への抗議行動をとり、Jリーグより注意を受けた。 優勝候補筆頭に挙げられた1stステージは7勝7敗の8位に終わったが、2ndステージ途中にジョアン・カルロスが監督に就任するとチームは息を吹き返し、クラブ記録を更新する10連勝で2ndステージは11勝3敗の2位と巻き返した。フランスやオーストリアのクラブからのオファーもあったが、約3割の減額を飲んだ年俸1億3000万円で契約を1年間延長した。この年のリーグ戦ではアシストランキングで1位となる16アシストを決めた。天皇杯決勝のサンフレッチェ広島戦では1得点1アシストの活躍を見せ、2度目のタイトルを手にした。UEFA EURO 2000予選は政治的理由からユーゴスラビア代表に不利な日程を余儀なくされ、最終節までユーゴスラビア、アイルランド、チェコの3ヶ国が首位を争ったが、最終戦でクロアチアに引き分けて本大会出場を決めた。 2000年 1月1日に開催された第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会戦では1ゴールを決め、2度目の天皇杯優勝に大きく貢献した。3月4日、ジュビロ磐田と対戦したゼロックス・スーパーカップはPK戦の末に敗れた。5月6日のV川崎戦では約25mの距離から直接フリーキックを沈め、Jリーグ史上23人目となる通算50得点を達成した。 UEFA EURO 2000では世代交代を進めたい監督のヴヤディン・ボシュコヴに冷遇され、控え選手の立場で大会に臨んだが、グループリーグ初戦のスロベニア戦では0-3の場面で途中出場して3-3の引き分けに持ち込み、チームに欠かせない存在であることをアピールした。ノルウェー戦では先制点の起点となるフリーキックを放ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、スペイン戦は試合終了間際に逆転負けを喫したものの、グループリーグを2位で辛くも勝ち抜いた。決勝トーナメント1回戦では2年前に敗れたオランダと対戦し、1-6の大差で敗れた。この大会がユーゴスラビア代表として臨んだ最後の主要大会となった。 8月26日に行われたたらみオールスターサッカーでは直接フリーキックを決め、1996年・1998年に続く3度目のMVPを受賞した。2ndステージ途中に大岩剛、望月重良、平野孝の3選手に突然の戦力外通告が告げられたため、ストイコビッチを含め選手たちには動揺が走り、優勝争いには全く絡まずにシーズンを終えた。来日7シーズン目で初めて退場処分を受けなかった。11月30日に契約を半年間延長し、契約が満了する2001年7月末をもって現役引退することが発表された。 2001年 1stステージは開幕から5試合で4勝1分と好調な出だしだったが、6節で磐田との直接対決に敗れたことがきっかけとなり、磐田に優勝をさらわれた。1stステージの最終節を前にした7月14日のサンフレッチェ広島戦で試合終了間際にJリーグラストゴールとなった決勝ゴールを決め、3-2での勝利に貢献、最終節7月21日の東京V戦でグランパスの選手として最後の公式戦出場を果たした、2001年4月25日には2002 FIFAワールドカップ予選のロシア戦に18分間出場した。キリンカップの日本との親善試合でユーゴスラビア代表のユニフォームを脱いだ。この試合後にはユニフォーム交換の依頼が殺到し、彼の人気の高さを改めて実感させた 。名古屋ではリーグ戦178試合に出場し、55得点を記録した。そのうちの14得点はペナルティキックによるものであり、6得点はフリーキックを直接決めたものであり、1得点はコーナーキックを直接決めたものである。木村元彦によればアシスト数は95を数え、アシストした回数が最も多いのは岡山哲也である。7年間の間にもらったイエローカードは69枚、退場処分回数は13回(そのうち一発退場回数は3回)に上った 。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「ドラガン・ストイコビッチ」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「ドラガン・ストイコビッチ」の記事については、「ドラガン・ストイコビッチ」の概要を参照ください。
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:06 UTC 版)
赤が地色、オレンジの三角形、その中に赤の四角。中央にチームロゴ。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「球団旗」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「球団旗」の記事については、「球団旗」の概要を参照ください。
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:39 UTC 版)
「カルロス・ケイロス」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説
1996年後半、アーセナルに移籍したアーセン・ベンゲルの後任として名古屋グランパスエイトの監督に就任。就任中にサントリーカップ・チャンピオン・ファイナル1996のタイトルを獲得し、翌年のセカンドステージ途中まで率いたものの成績が安定せずに解任された。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「カルロス・ケイロス」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「カルロス・ケイロス」の記事については、「カルロス・ケイロス」の概要を参照ください。
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:27 UTC 版)
大宮と後述のワールドユースでの活躍もあってオファーが殺到。2004年に複数舞い込んだ移籍話の中から、あえて当時日本代表で活躍していた楢崎正剛が在籍する名古屋グランパスエイトへ移籍。しかし当時が円熟期にあった楢崎の牙城は堅く、公式戦では控えに甘んじる日々が続き、結果的にアテネオリンピックの代表メンバーからは外れた。 2005年シーズン終盤に楢崎が負傷すると、セフ・フェルフォーセンが監督に就任した2006年シーズン序盤に出場機会を得るものの、第9節で楢崎が復帰した後の出場は2試合に留まった。3年間の公式戦出場はリーグ戦17試合、Jリーグカップ18試合、天皇杯1試合の計36試合であり、総試合数の3分の1程度であった。楢崎と競うことは川島の成長に繋がらないと考えたフェルフォーセンは、川島に確実にプレーできるチームへの移籍することを勧めた。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「川島永嗣」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「川島永嗣」の記事については、「川島永嗣」の概要を参照ください。
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:42 UTC 版)
高校卒業に際して複数のJリーグクラブからオファーを受け、前年に特別指定選手として在籍していた名古屋グランパスエイトとプロ契約を結んだ。背番号は「24」。本人の希望により加入時の契約に「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた。2005年3月5日、ジェフユナイテッド千葉戦でクラブ史上4人目となる高卒ルーキーの開幕スタメンでプロデビューし、アシストを決めた。4月28日、第8節東京ヴェルディ戦でプロ初ゴールを決めた。 セフ・フェルフォーセンが監督に就任した2年目からレギュラーに定着。フェルフォーセンは本田を主に左サイドで起用するが、これはヨンセンの高さを生かすために本田のクロスが武器になることを期待したことに加え、まだ若い本田の戦術理解力を上げるために様々な役割を与えていたことが理由として挙げられる。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「本田圭佑」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「本田圭佑」の記事については、「本田圭佑」の概要を参照ください。
名古屋グランパスエイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:50 UTC 版)
「フューチャーカード バディファイト」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説
2017年8月12日に、豊田スタジアムでの松本山雅FC戦に来場すると、オリジナルコラボカード「海王騎竜 グランパスVIII世」がプレゼントされるコラボイベントを実施。
※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「フューチャーカード バディファイト」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「フューチャーカード バディファイト」の記事については、「フューチャーカード バディファイト」の概要を参照ください。
「名古屋グランパスエイト」の例文・使い方・用例・文例
固有名詞の分類
日本のスポーツチーム | 香川オリーブガイナーズ 鹿島アントラーズ 名古屋グランパスエイト 栗田工業 大同特殊鋼フェニックス |
中部地方のサッカークラブ | ジュビロ磐田 アザリー飯田 名古屋グランパスエイト ヴァンフォーレ甲府 ボラーレFC浜松 |
名古屋市の企業 | 中部水産 セラヴィホールディングス 名古屋グランパスエイト 名古屋牛乳 名鉄産業 |
中区 (名古屋市)の企業 | 丸栄 セラヴィホールディングス 名古屋グランパスエイト 大須ういろ 木村証券 |
- 名古屋グランパスエイトのページへのリンク