名古屋グランパスエイトとは? わかりやすく解説

なごや‐グランパスエイト【名古屋グランパスエイト】

読み方:なごやぐらんぱすえいと

日本プロサッカーリーグクラブチームの一。ホームタウン名古屋市ほか2市を中心とする愛知全県昭和14年1939創設トヨタ自動車サッカー部再編し平成3年1991)に発足平成5年1993)のJリーグ発足時から参加平成20年2008)から「エイト」を除いて呼称する。

[補説] 「グランパスgrampus)」は英語で(しゃち)の意。「エイトeight)」は名古屋市市章(八)であり、末広がりを表す。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 06:24 UTC 版)

名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、: Nagoya Grampus Eight)は、日本名古屋市豊田市みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとする[2]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)。




「名古屋グランパスエイト」の続きの解説一覧

名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:24 UTC 版)

ドラガン・ストイコビッチ」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

1994年 6月13日日本プロサッカーリーグJリーグ)の名古屋グランパスエイトと年俸(7ヶ月分)5,000万円契約しマルセイユには移籍金9,000万円支払われた。大物外国人として騒がれゲーリー・リネカー十分に活躍できなかったこともあってか、ファンマスコミストイコビッチ懐疑的な目で見る者も多かった7月16日浦和レッドダイヤモンズとのプレシーズンマッチでチームデビューし、8月10日2ndステージ開幕戦サンフレッチェ広島戦でリーグ戦デビューしたが、試合開始18分で2枚イエローカード提示され散々なデビュー戦となった豪雨の中での試合となった9月17日ジェフユナイテッド市原戦ではリフティングドリブル観客度肝抜き、さらに移籍後得点となる直接フリーキック決めてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた9月21日ジュビロ磐田戦では加入後初の2ゴール決めて勝利したが、9月23日ゴードン・ミルン監督辞任し三浦哲郎暫定監督に就き指揮を執ったが、2ndステージ最下位終わったかねてより後任監督推薦していたアーセン・ベンゲル1994年11月監督就任したため、半年間だけの在籍という予定変更し年俸5,500万円契約更改した12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置一部解除されたため、代表の新キャプテンとして12月23日行われたブラジルとの親善試合出場した1995年 開幕からしばらくは下位低迷したストイコビッチ自身判定対す苛立ちから審判食ってかかり、出場停止明けて退場処分繰り返し負け続いたチームの足を引っ張った。しかし、5月中断期間に行ったキャンプベンゲル戦術再確認され、1stステージ1511敗(中断期間後は9勝1敗)の4位でシーズン終えたベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多得票集めて選出され2ndステージ開幕戦ジュビロ磐田戦では1得点3アシスト活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。ファン彼のプレー魅了され応援団コール叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わったヴェルディ川崎との直接対決敗れて優勝果たせなかったが、17得点29アシスト活躍見せ得点王福田正博大差をつけてリーグ最優秀選手選ばれた。天皇杯ではヴィッセル神戸鹿島アントラーズ退けて決勝進出し決勝ではサンフレッチェ広島3-0快勝し優勝果たした1996年 1996年初の公式戦となったゼロックス・スーパーカップでは横浜マリノス対戦し2-0快勝しタイトル獲得した。彼自身は3ステージ連続リーグ開幕戦得点しチーム開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速して1stステージ10勝5敗の6位で終えた5月26日にはキリンカップユーゴスラビア代表として出場しキャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した2ndステージ途中9月28日柏レイソルをもってベンゲル監督退任したが、最終的に21勝9敗で2位という好結果残したベンゲル退団の際、契約が切れるストイコビッチアーセナルに連れて行くことを熱望しアーセナルでのプレー役割獲得予定選手について説明するなど、何度も説得試みた。また本人アーセナル移籍について考えたが、9月12日にはクラブとの契約2年延長して残留選んだ10月30日V川崎戦では中村忠頭突き見舞い、3試合出場停止処分言い渡された。Jリーグチャンピオン・ファイナルで優勝しMVP選ばれた。11月にはアジアカップウィナーズカップ出場して準優勝した。 1997年 3月2日サンワバンクカップD.C. ユナイテッド戦では1得点2アシスト活躍MLS王者下した。しかし、リーグ戦では前年快進撃が嘘のように歯車噛み合わず7月9日横浜マリノス戦では提示されイエローカード逆に主審突きつけ審判侮辱する行為だとして4試合出場停止処分受けたナビスコカップでは準決勝進出したが、リーグ戦1stステージ12位、2ndステージは5位、天皇杯東京ガスサッカー部敗れて初戦敗退と振るわなかった。1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には毎回日本から駆け付け、1位通過スペイン許したが、プレーオフではハンガリー相手に2試合合計12-1大勝して本大会出場決めた1998年 1stステージ試合ごとの浮き沈み激しかったが、終盤追い上げ3位順位上げて幕を閉じた制裁措置解除後初の国際大会出場となった1998 FIFAワールドカップグループリーグのドイツ戦は2-2引き分け終わったが、ストイコビッチ中心とした華麗なパス回しピッチ支配し自身も1ゴール決めて一時2-0優勢に試合進めた決勝トーナメント1回戦オランダ戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストするフリーキック蹴ったが、ロスタイム決勝点決められ敗れたワールドカップ間中には欧州クラブへの復帰噂された。8月16日行われたJリーグオールスターサッカーでは同点となる得点決めたほか2点目と3点目の起点にもなり、2年連続MVP受賞したセカンドステージ優勝争いからは早々に脱落天皇杯準決勝清水エスパルス敗れた1999年 1999年には呂比須ワグナーベルマーレ平塚より)、山口素弘楢崎正剛いずれも横浜フリューゲルスより)の3人の日本代クラス選手加入しリーグ戦初優勝期待された。3月6日アビスパ福岡との開幕戦では3年ぶりにヘディング得点決め幸先良いスタート切ったが、3月24日には北大西洋条約機構NATO)による母国ユーゴスラビアへの空爆開始され、それが6月10日まで続いたそれまではできる限り政治的な発言控えて来たが、3月27日神戸戦後に「NATO STOP STRIKES」(NATOユーゴスラビアへの空爆止めよ)というアンダーシャツ見せて空爆への抗議行動をとり、Jリーグより注意受けた優勝候補筆頭挙げられ1stステージは7勝7敗の8位に終わったが、2ndステージ途中ジョアン・カルロス監督就任するチーム息を吹き返しクラブ記録更新する10連勝2ndステージ11勝3敗の2位巻き返した。フランスオーストリアクラブからのオファーもあったが、約3割の減額飲んだ年俸1億3000万円で契約1年間延長したこの年リーグ戦ではアシストランキングで1位となる16アシスト決めた天皇杯決勝サンフレッチェ広島戦では1得点1アシスト活躍見せ2度目タイトルを手にした。UEFA EURO 2000予選政治的理由からユーゴスラビア代表不利な日程余儀なくされ、最終節までユーゴスラビアアイルランドチェコの3ヶ国が首位争ったが、最終戦クロアチア引き分けて本大会出場決めた2000年 1月1日開催され第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会戦では1ゴール決め2度目天皇杯優勝大きく貢献した3月4日ジュビロ磐田対戦したゼロックス・スーパーカップPK戦の末に敗れた5月6日V川崎戦では約25mの距離から直接フリーキック沈めJリーグ史上23人目となる通算50得点達成したUEFA EURO 2000では世代交代進めたい監督ヴヤディン・ボシュコヴ冷遇され控え選手立場大会臨んだが、グループリーグ初戦スロベニア戦では0-3場面で途中出場して3-3引き分け持ち込みチーム欠かせない存在であることをアピールしたノルウェー戦では先制点起点となるフリーキック放ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれスペイン戦は試合終了間際逆転負け喫したものの、グループリーグ2位辛くも勝ち抜いた決勝トーナメント1回戦では2年前に敗れたオランダ対戦し1-6大差敗れた。この大会ユーゴスラビア代表として臨んだ最後主要大会となった8月26日行われたたらみオールスターサッカーでは直接フリーキック決め1996年・1998年に続く3度目MVP受賞した2ndステージ途中大岩剛望月重良平野孝の3選手に突然の戦力外通告告げられたため、ストイコビッチ含め選手たちには動揺走り優勝争いには全く絡まずにシーズン終えた来日7シーズン目で初め退場処分を受けなかった。11月30日契約半年延長し契約満了する2001年7月をもって現役引退することが発表された。 2001年 1stステージ開幕から5試合で4勝1分と好調な出だしだったが、6節で磐田との直接対決敗れたことがきっかけとなり、磐田優勝さらわれた1stステージ最終節前にした7月14日サンフレッチェ広島戦で試合終了間際にJリーグラストゴールとなった決勝ゴール決め3-2での勝利貢献最終節7月21日東京V戦でグランパス選手として最後公式戦出場果たした2001年4月25日には2002 FIFAワールドカップ予選ロシア戦に18分間出場したキリンカップ日本との親善試合ユーゴスラビア代表ユニフォーム脱いだ。この試合後にはユニフォーム交換依頼殺到し彼の人気の高さを改め実感させた 。名古屋ではリーグ戦178試合出場し55得点記録したそのうち14得点ペナルティキックよるものであり、6得点フリーキック直接決めたものであり、1得点コーナーキック直接決めたのである木村元彦によればアシスト数は95数えアシストした回数が最も多いのは岡山哲也である。7年間の間もらったイエローカード69退場処分回数13回(そのうち一発退場回数3回)に上った

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「ドラガン・ストイコビッチ」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「ドラガン・ストイコビッチ」の記事については、「ドラガン・ストイコビッチ」の概要を参照ください。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:06 UTC 版)

球団旗」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

赤が地色オレンジ三角形、その中に赤の四角中央チームロゴ

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「球団旗」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「球団旗」の記事については、「球団旗」の概要を参照ください。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:39 UTC 版)

カルロス・ケイロス」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

1996年後半アーセナル移籍したアーセン・ベンゲル後任として名古屋グランパスエイトの監督就任就任中にサントリーカップ・チャンピオン・ファイナル1996タイトル獲得し翌年セカンドステージ途中まで率いたものの成績安定せず解任された。

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「カルロス・ケイロス」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「カルロス・ケイロス」の記事については、「カルロス・ケイロス」の概要を参照ください。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:27 UTC 版)

川島永嗣」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

大宮後述ワールドユースでの活躍もあってオファー殺到2004年複数舞い込んだ移籍話の中から、あえて当時日本代表活躍していた楢崎正剛在籍する名古屋グランパスエイトへ移籍。しかし当時円熟期にあった楢崎牙城堅く公式戦では控え甘んじる日々続き結果的にアテネオリンピック代表メンバーからは外れた2005年シーズン終盤楢崎負傷すると、セフ・フェルフォーセン監督就任した2006年シーズン序盤出場機会を得るものの、第9節で楢崎復帰した後の出場は2試合に留まった。3年間の公式戦出場リーグ戦17試合Jリーグカップ18試合天皇杯1試合の計36試合であり、総試合数の3分の1程度であった楢崎競うことは川島成長繋がらない考えたフェルフォーセンは、川島確実にプレーできるチームへの移籍することを勧めた

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「川島永嗣」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「川島永嗣」の記事については、「川島永嗣」の概要を参照ください。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:42 UTC 版)

本田圭佑」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

高校卒業に際して複数のJリーグクラブからオファーを受け、前年特別指定選手として在籍していた名古屋グランパスエイトとプロ契約結んだ背番号は「24」。本人希望により加入時の契約に「オファーがあれば海外クラブへの移籍認める」という条項盛り込まれていた。2005年3月5日ジェフユナイテッド千葉戦でクラブ史上4人目となる高卒ルーキー開幕スタメンプロデビューし、アシスト決めた4月28日第8節東京ヴェルディ戦でプロゴール決めたセフ・フェルフォーセン監督就任した2年目からレギュラー定着。フェルフォーセンは本田を主に左サイド起用するが、これはヨンセンの高さを生かすために本田クロス武器になることを期待したことに加え、まだ若い本田戦術理解力上げるために様々な役割与えていたことが理由として挙げられる

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「本田圭佑」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「本田圭佑」の記事については、「本田圭佑」の概要を参照ください。


名古屋グランパスエイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:50 UTC 版)

フューチャーカード バディファイト」の記事における「名古屋グランパスエイト」の解説

2017年8月12日に、豊田スタジアムでの松本山雅FC戦に来場すると、オリジナルコラボカード「海王騎竜 グランパスVIII世」がプレゼントされるコラボイベント実施

※この「名古屋グランパスエイト」の解説は、「フューチャーカード バディファイト」の解説の一部です。
「名古屋グランパスエイト」を含む「フューチャーカード バディファイト」の記事については、「フューチャーカード バディファイト」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「名古屋グランパスエイト」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「名古屋グランパスエイト」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「名古屋グランパスエイト」の関連用語

名古屋グランパスエイトのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



名古屋グランパスエイトのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの名古屋グランパスエイト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドラガン・ストイコビッチ (改訂履歴)、球団旗 (改訂履歴)、カルロス・ケイロス (改訂履歴)、川島永嗣 (改訂履歴)、本田圭佑 (改訂履歴)、フューチャーカード バディファイト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS