騎馬民族征服王朝説 学説に対する批判

騎馬民族征服王朝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 20:12 UTC 版)

騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説[1][2][3][4]。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう[4]


注釈

  1. ^ AERA2009年12月28日号では、「ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で、今日ではほとんど否定されている』と指摘した」と報じている。
  2. ^ 穴沢は、日本における考古学・古代史の大部分の学者の意見を「騎馬『文化』はやってきた、だが騎馬『民族』は来なかった」と集約し、自身の見解としては「『日本人のルーツはこの日本以外のどこでもなく弥生の泥田の中から農民の汗と血にまみれて日本の国が成長してきたのだ』という、おもしろくもおかしくもない平凡な結論が正解のように思われる」と述べている[11]
  3. ^ 穴沢はまた、騎馬民族説がプロの考古学者にすこぶる不評である理由として、日本列島の古代社会の発展や国家形成を資料にもとづいて説明するうえで、騎馬民族をわざわざ渡海させる必要はなく、むしろそれを除外して考察した方が歴史の諸事象を合理的にすんなりと説明できるからだとしている[12]
  4. ^ 日本語の「うま」はモンゴル語・ツングース語のmorinや朝鮮語のmarよりも漢語のmaに近いので、日本列島の馬は漢語を話す渡来人によってもたらされたものと推定できる[22]
  5. ^ 井上光貞は、日本の征服は崇神天皇ではなく、応神天皇を初代と考える方が合理的だとした[5][23]狗奴国の後裔が東遷して征服を担ったとするよりは、北九州の豪族たる応神が畿内に進出して新王朝を樹立したとみるべきであり、あくまでも仮説だと断りつつも、応神が朝鮮半島を渡って日本に侵入した方が合理的だとさえ述べている[23]。井上は水野説を検討して「その全構想には、にわかに従いがたい」と言いながらも、応神が征服者であり、九州の豪族であることには賛意を示し、江上説は否定した[5][23]。井上にあっては応神朝の新しさが強調され、彼は応神新王朝論のさきがけとなった[5][23]
  6. ^ 哲学者カール・ポパーは、すべての「科学的理論」は「反証可能」でなければならないとしている[19]
  7. ^ 田中琢は、5世紀代の最大の技術革新は農業にあったことを指摘しており、この新しい農業技術も騎馬民族が持ち込んだものなのかという疑問を呈している[25]
  8. ^ 英語学者で評論家の渡部昇一はかつて江上の講演で江上本人にこの矛盾を質問したが、「えっ、出て来ない? そうだったかな。困ったな」と狼狽してまともに答えられなかったという[27]
  9. ^ 『古事記』では沼河比売を訪れた八千矛神(大国主)がスセリビメの嫉妬を宥める場面で片手を馬のにかけ、片足をに踏み入れて歌ったとある。他には大毘古命が少女の不吉な歌を聴いて「馬を返して」少女に歌の意味を尋ねたという1箇所のみである。『日本書紀』の同じ場面では「馬を返して」が無く、ヤマトタケル信濃国を通る場面で2箇所「馬」が現れるが、いずれもヤマトタケルの行動ではない。記紀ともに住吉仲皇子の乱で阿知使主司馬曹達阿直岐と同一人物ともされる)らが履中天皇を馬に乗せて救出したことを記すが、5世紀初頭と考えられる。
  10. ^ 田中琢は、江上が初現時期の異なる短甲と挂甲とを一緒くたにしていると批判している[25]
  11. ^ スサノオの勝さびの神話や仲哀天皇没後の大祓の伝承から、過去には犠牲が存在した可能性も考えられる。
  12. ^ 『日本書紀』には垂仁天皇が先皇(崇神天皇)の名前に因んで、地域名称として「任那」を命名したという記事がある。『古事記』では崇神の皇后を御真津比売(ミマツヒメ)と称することからも「ミマ」説の成立の余地はあるが、本説とは全く逆の因果関係を示したものである。
  13. ^ 倭のみならず、百済や伽耶、新羅にあっても独自の伝統文化に基づいて諸要素を取捨選択しつつ騎馬文化を受容しており、導入側に主体性があった事実を示しているものと考えられる[37]
  14. ^ 神話関係に関していえば、日本の古代神話の主要な説話はいずれも海外にも類話をもっており、とりわけ中国大陸と朝鮮半島は重要な分布地となっているが、支配者の穀物起源については高句麗、天孫降臨説話については新羅と加羅、神武東征説話については百済というように特定の国家とだけ排他的に結びつくのではなく、さまざまな王国の建国神話伝承と関係をもっていることが着目される[35]。そこからすれば、支配者が朝鮮半島から王権神話をたずさえて日本列島に乗り込んできたというよりは、列島の支配者が朝鮮諸王国の神話からそれぞれ適当な部分を主体的に選択して受容した可能性の方が高いと考えられる[35]。大林太良は、支配者自身が移動しなくても支配者文化は移動するという現象は世界的に広くみられ、たとえば正倉院の収蔵品からも、奈良時代における支配者文化の(移動をともなわない)国際性を指摘できるとしている[35]。なお、大林は日本への王権神話の流入は古墳時代の頃で、その王権文化はアルタイ語族の文化につらなる要素が多く、それを仲立ちとして西方のインド・ヨーロッパ語族の神話要素も含んでいるとしている[35]
  15. ^ 国内文献(記紀)によれば牛馬は五穀と共に保食神の体から生じたとされ、農業と養蚕の起源が語られるが、牛馬の説明は無い。また仲哀天皇の死後に行われた大祓の中に「牛婚」「馬婚」があったと記されている。そして神功皇后新羅に遠征して御馬甘(みまかい、馬飼部)とし、馬用の刷毛を献じさせたという伝承があり、続く応神天皇の時代に百済から渡来した阿直岐が二頭の馬(『古事記』では牡と牝、『日本書紀』では「良馬」)をもたらしたことを記紀ともに記している。
  16. ^ 『火の鳥』黎明編ではニニギを騎馬民族の王として描いているが、記紀ともにニニギが馬に乗っていたという記事は無い。また「ヒミコ」の弟スサノオが姉の御殿に牛を投げ込む場面があるが、これはアマテラスの弟スサノオが姉の御殿に馬を投げ込んだ神話を改変したものかとも考えられるが、魏志倭人伝には倭の地には牛もいないと記されている。続くヤマト編でもヤマトタケルは馬に乗って活躍した英雄に変わっているが、同編ではヤマトタケルの父は「ソガ大王」(石舞台古墳に葬られた蘇我馬子)とされており、全体的に創作部分の多い作品となっている。
  17. ^ これに対し、都出比呂志は、金海大成洞古墳群の出土品は倭のみならず、遠く北方遊牧民との交易を示唆するものだとしている[47]
  18. ^ 岡田は体験談として次のように述べている。「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。日本人にはモンゴルが好きな人が多くて、モンゴルに観光旅行に行っては、われわれの祖先はここから来たんですね、と言う。騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれはまったくの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、まったく耳をかそうとしない。だいたい、ふつうの人はそういうものだ。これは、神話としての歴史を必要とする、心理的な欲求があることを示している。歴史に、情緒的な満足を求めているのだ。だから、騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっと『よい歴史』を提供しなければいけない、ということになる。」[41]
  19. ^ たとえば、農耕民の生業と対比できるのは遊牧民、牧畜民、狩猟採集民、漁撈民などであって騎馬民ではなく、遊牧系の騎馬民族もいれば農耕系の騎馬民族もいる[58]。江上自身、半農半牧の夫余を騎馬民族として扱っている[58]。こうした概念規定の曖昧さが不毛な水掛け論を招き、建設的な議論ができなくなってしまっている、と岡内は指摘している[58]
  20. ^ 白石太一郎は、1986年に「巨大古墳にみる大王権の推移」(『日本古代史 第4巻 王権の争奪』(集英社))において、誉田御廟山古墳をはじめとする古市古墳群および大仙陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群の成立が、騎馬民族の進出によるものではないことを考古学的に論証している[63]
  21. ^ 吉村武彦は、白石太一郎らの河内王朝論は、江上の騎馬民族説と水野の古代王朝交替論の影響があるのではないかとしている[5]。応神朝を外来系の征服王朝とみるのではなく、隣接する河内(難波)の地の豪族による征服とみるのが河内王朝論である[5]。これに対し、吉村は近藤義郎の主張を継承して王墓の所在地と政治勢力の本拠地は切り離して考慮すべきとしている[64]
  22. ^ 奈良県桜井市に所在する箸墓古墳が弥生時代の墳丘墓の段階を脱した最古の古墳と考えられ[66][67]、その年代は3世紀中葉から後半とする見解が多く[71]、遅くとも4世紀初頭とみなされる[66]纏向遺跡のすぐ南に位置するこの古墳の造営以降、大和・河内・和泉の地において大型の前方後円墳が陸続と造営される[67]。このことについては、単発的に造られたのではなく大型前方後円墳を築く約束ごとが継承されていったことを重視すべきとの指摘がある[67]。なお、韓国全羅南道栄山江流域で、5世紀後半から6世紀前半にかけての前方後円墳が計14基見つかっており、周辺遺跡も含め倭からの強い影響を示す形象埴輪も出土している[68][69]。かつては、韓国の学者から朝鮮半島で前方後円墳の墳形が生まれて、それが日本列島に持ち込まれたというナショナリズムに依拠した意見が発表されたこともあったが、韓国の考古学研究者朴天秀は移動と文化交流の双方向性を唱え、栄山江流域の前方後円墳の被葬者が北部九州エリア出身の倭人で百済とも密接にかかわる人々であると論じた[69]
  23. ^ 3世紀成立の陳寿三国志』「魏志」東夷伝・弁辰の条に「韓・濊・倭、皆従ってこれ(鉄)を取る。諸市(物品を)買うに皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」と記述されており、弁辰が鉄産地であり、3世紀時点で韓・濊・倭では弁韓の鉄を銭貨の代わりとして用いていたことが示されている[73]。魏志倭人伝にも、市の監督に関連すると思われる記事が収載されている[73]
  24. ^ 国際基督教大学のJ.エドワード・キダーは、日本列島の住民が騎馬を駆使するようになったのは、4~5世紀のヤマト王権「形成期」ではなく、7~8世紀の「統合期」であると論じている[63]
  25. ^ 高麗朝期の史書『三国史記』には新羅王家の始祖は前漢孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している[74]
  26. ^ 2010年出版の諫早直人著『海を渡った騎馬文化──馬具からみた古代東北アジア』(風響社)および2014年の「東アジアの古代文化を考える会」編集の論文集『今、騎馬民族説を見直す──東アジア騎馬文化の証言』。森安自身は、「4世紀に北方系の騎馬民族が日本を征服したという江上説の核心部分が否定されたのは、当然と言えば当然だった」と述べつつ、清瀬義三郎や河野六郎ら言語学の研究成果に着目し、倭人(弥生系日本人)のルーツが中国大陸に起源をもち、濊族と同源関係にある可能性を指摘している[22]

出典

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  2. ^ 騎馬民族説』 - コトバンク
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