豊島与志雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 13:24 UTC 版)
生涯
福岡県下座郡福田村大字小隈(現:朝倉市小隈)の士族の家に生まれる。
1909年(明治42年)福岡県立中学修猷館[1]、1912年(明治45年)第一高等学校文科[2]を経て、東京帝国大学文科大学仏文学科に進学[3]。
東京帝大在学中の1914年(大正3年)に、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと第3次『新思潮』を刊行し、その創刊号に処女作となる「湖水と彼等」を寄稿し注目される。1915年(大正4年)、東京帝大卒業[3]。
1917年(大正6年)、生活のため、新潮社に中村武羅夫を訪ねて仕事を貰ったのが、『レ・ミゼラブル』の翻訳であった。これがベストセラーになり、大金を得た。この訳は、何度か改訂を経て岩波文庫で読み継がれている名訳である。こうして、翻訳が主で創作が従の活動が続く。
1923年(大正12年)、法政大学法文学部教授となる。1925年から再び旺盛な創作活動が始まる。1927年(昭和2年)から1928年(同3年)、『レ・ミゼラブル』の再刊で再び印税多量に入る。1932年(昭和7年)、明治大学文芸科教授となる。1934年(昭和9年)、法政騒動により解雇される。1936年(昭和11年)、河出書房の編集顧問となる。1938年(昭和13年)、再び法政大学教授となる。
戦後は、第二次世界大戦により活動を停止していた日本ペン倶楽部(当時の会名)の再建に尽力し、1947年2月、再建された日本ペンクラブの幹事長に就任する。1949年(昭和24年)、法政・明治両大学を辞職、法政大学名誉教授。同年、日本芸術院会員となる。1952年(昭和27年)、旧訳『ジャン・クリストフ』が売れ、莫大な印税が入る。
1955年(昭和30年)6月18日、心筋梗塞のため東京都文京区千駄木の自宅で死去[4]。享年64。墓所は多磨霊園。
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