文明 脚注

文明

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参考文献

関連項目


注釈

  1. ^ 逆に温暖化が進んでいた時期に重なった事で、文明構成住民の霧散化が起こり自然消滅したと言われるのがインダス文明とされる説もある。
  2. ^ 文明の起源に関する心理学的考察として二分心がある。
  3. ^ トインビーは、これを(環境の)挑戦に対する応報という概念で説明した。移住と生活様式のふたつの変革が、挑戦に対する応報として有効になる。トインビー『歴史の研究』〈世界の名著〈第61〉トインビー〉中央公論社、1967年 。ただし、文明の発生は、文化段階を含め長い時間をかけて行われたので、あくまでそういう説もあるというにとどまる。
  4. ^ 梅棹は制度群、装置群という考えで、文明の諸手段は文化と違い、地域を超えて伝達可能であるとする。伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年。
  5. ^ 梁啓超の「二十世紀太平洋歌」(1900年)には「地球上古文明祖國有四:中國、印度、埃及、小亞細亞是也。」との記載がある。金沢大学教授の村井淳志は、この「四大文明」は考古学者江上波夫による造語で、1952年発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出であると2009年に発表した[7]青柳正規は江上のこの造語について、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定している[8]
    また京都大学教授の杉山正明江上波夫が杉山に「四大文明」を広めたのは自分であると伝えたと回想している[9]。杉山によれば「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」と江上が述べたと記している。
    このように「四大文明」を提唱した江上波夫も文明の数については四つに限定されるものではないとしており、また考古学的研究が世界の全地域をカバーするようになると、四大文明以外にも文明の定義を満たすような社会が次々に発見され、四大文明説は定説の座を降り、近年[いつ?]の研究書や教科書では「四大文明」について記述するものは少なくなってきている。現在でも池田誠など四大文明図式にもとづいた研究もあるが、このなかでもスキタイを加え5つの文明文化圏を分析している。中国文明については黄河文明のほか長江文明遼河文明についても最近は研究されている。後述するように現在でも文明の数の定説は論者によって様々であり、不確定である。
  6. ^ 4大文明メソアメリカ文明アンデス文明などのアメリカ大陸の文明を含めて6大文明ということもある。また、フィリプ・バグビーは[10]、9大文明とし、中国と日本、東方正教会西欧を分類するなら11大文明になるとしている。マシュー・メルコは[11]中国日本インドイスラム西欧の5つに分類している。北朝鮮[12]、「大同江文化」を加えて五大文明だとしている。
  7. ^ civilizationを「文明」と訳したのは福沢である。文明開化期に欧米的価値観を意味することが強かった「文明」の用法は、やがて明治期後半に「西洋文明」との対比のなかで「東洋文明」が認識されるようになり、非西洋の精神的・物質的文化の総体も「文明」と呼ばれるようになり、変化していった[16]
    福沢は「通論」の紹介として、ヨーロッパとアメリカの文明を最上の文明国、トルコ、シナ、日本などアジア諸国を半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国としている-文明論之概略第二章「西洋の文明を目的とする事」。福沢は野蛮について「居に常処なく食に常品なし。便利を遂うて群を成せども,便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め,衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず,文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ,人為の恩威に依頼し,偶然の禍福を待つのみにて,身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。」半開について、「農業の道大に開けて衣食具わらざるに非ず。家を建て都邑を設け,その外形は現に一国なれども,その内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く,人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども,事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく,旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども,習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。」文明について、「天地間の事物を規則の内に籠絡すれども,その内に在て自から活動を逞うし,人の気風快発にして旧憤に惑溺せず,身躬からその身を支配して他の恩威に依頼せず,躬から徳を脩め躬から智を研き,古を慕わず今を足れりとせず,小安に安んぜずして未来の大成を謀り,進て退かず達して止まらず,学問の道は虚ならずして発明の基を開き,工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし,人智は既に今日に用いてその幾分を余し,以て後日の謀を為すものゝ如し。是れを今の文明と云う。」と述べている。また中国文明と日本文明との異同については、日本も古代においては「神政府」による支配で人民の心単一であったが、武家社会になると、「至尊」(王室=天皇の権威)と「至強」(武家権力)とが分離し、そのような神政尊崇の考と武力圧制の考の間に自由の気風が生まれたとして、これはシナ(中国)のような純然たる独裁の一君を仰ぐような社会とは異なるとした[17]
  8. ^ 文明はふつう、宗教や他の信仰体系に結びつけられるとした。
  9. ^ 1934年からの『歴史の研究』で、まりのある文化圏を文明とし、シュメールアッカド文明、エジプト文明、ミノス文明シリア文明、中央アジア文明、インド・パキスタン文明、中国文明、ギリシア文明、ヘレニズム文明 (ヨーロッパ文明)、日本文明、ギリシア正教文明、中央アメリカ文明、アンデス文明、イスラム文明など26の文明を文明を識別した。
  10. ^ 海についても、文明の生態史観での海の役割についての考察を元に、その後、多くの研究を、梅棹は指導し、指揮している。
  11. ^ ユーラシアの背骨を占める乾燥気候のもとにある遊牧民は、定期的に周りの農耕文明に侵攻し、農業文明の上に大帝国を創りあげる。この砂漠の嵐による文明の崩壊が、ユーラシア大陸の中枢部の文明を絶えず瓦解させ、文明は発展することが出来ない。日本やヨーロッパなど、ユーラシアの外れにある文明は、持続的に発展でき、封建社会を生み出し、ユーラシア中央の文明を凌駕することが出来た。この梅棹の文明論は、当時、マルクス主義によるヨーロッパを頂点とする文明の単線進化に対し、文明の環境構造を持ち込み、生態学という生物学の概念により、文明の進化-遷移を論じた。この生態学遷移理論は、今西錦司の遷移理論が元になっている。ヨーロッパを唯一のモデルにした唯物論(生産力史観)に対し、生態学という異なる視点から、文明の発展原理を提示した。当時、マルクス主義的な発展論に対する対抗理論はなかった。
  12. ^ 情報文明も、梅棹の独自理論で、文明の生態史観が共時的な理論、情報論が通時的な理論であると、梅棹は述べている。梅棹忠夫『情報産業論』1963年。『情報の文明学』1988年。
  13. ^ 川勝は、雑誌、中央公論への投稿で、自分は京大の人文研の思想系列が好きであるとし、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないとしたが、出版本では批判は消えている。川勝は、人文研の流れにある今西好きであり、いくつかの論考を書いている。一方、梅棹は、今西の直弟子である。
  14. ^ 川勝平太は、『文明の海洋史観』で、海洋の役割を強調し、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏が成立し、1500年頃から、交易圏に遅れて参加した日本やヨーロッパの文明は、みずからの文明を革新し、雁行して進化し、古いユーラシアの文明を凌駕するにいたったと位置づけた。
  15. ^ アフロ・ユーラシア大陸砂漠地域が先発文明の地域であり、ヨーロッパや日本の湿潤多雨森林文明は後発文明とする-嶋田義仁『砂漠と文明 - アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論』岩波書店2012。また[1]夢ナビ講義も。ただし、これらの考えは、古くからある。
  16. ^ 20世紀半ばに西洋諸国が支配した植民地が次々と独立し、自立性を取り戻すと、西洋文明の継続的拡大という見方は覆され、政治的支持を得にくくなった。多くの学問分野で、文明と野蛮(未開)という区分は時代遅れで誤ったものと考えられている。それでも、欧米の保守的知識人の(学問的性格が薄い)評論の中では、優れた西洋文明という考えは一定の支持を得ている。

出典

  1. ^ a b 大貫他 1998, pp. 127–129.
  2. ^ 大貫他 1998, p. 131.
  3. ^ 伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年。
  4. ^ 禰津他 1951 [要ページ番号]
  5. ^ 小林 2005 [要ページ番号]
  6. ^ 小林 2005 [要ページ番号]
  7. ^ 村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『社会科教育』2009年4月号、明治図書出版。
  8. ^ 青柳 2009 [要ページ番号]
  9. ^ 杉山正明「書評『マヤ文明』 青山和夫著」2012年6月25日 読売新聞。
  10. ^ Bagby, Philip (1963) Culture and History: Prolegomena to The Comparative Study of Civilizations
  11. ^ Melko, Matthew (1969) The Nature of Civilizations
  12. ^ 평양이 세계 5대 문명 발상지 중 한곳?「平壌が世界5大文明発祥地の中の1ヶ所?」 東亜ドットコム(東亜日報) 2011年6月24日。
  13. ^ a b 池田誠「四大文明のシミュレーション・モデルの研究」『システムダイナミックス』第8巻、システムダイナミックス学会日本支部、2009年、61-76頁、ISSN 13470949NAID 40016842549 
  14. ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」pp.142-145 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷。
  15. ^ The World of Civilizations Archived 2007年3月12日, at the Wayback Machine.
  16. ^ 石川禎浩「東西文明論と日中の論壇」古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』京都大学人文科学研究所、1994年。
  17. ^ 松沢弘陽「文明論における「始造」と「独立」 -『文明論之概略』とその前後-(2・完)」『北大法学論集』第33巻第3号、北海道大学法学部、1982年、783-843頁、ISSN 03855953NAID 120000959627 
  18. ^ 藤井聡「実践的風土論にむけた和辻風土論の超克 : 近代保守思想に基づく和辻「風土 : 人間学的考察」の土木工学的批評」『土木学会論文集』第62巻第3号、土木学会、2006年10月、334-350頁、doi:10.2208/jscejd.62.334NAID 10019324073 
  19. ^ Berque Augustin, 紺田千登史「社会学部創立35周年記念講演会--空間の問題--ハイデッガ-から和辻へ (〔関西学院大学〕社会学部創立35周年記念講演会特集)」(PDF)『関西学院大学社会学部紀要』第78号、関西学院大学、1997年10月、7-15頁、ISSN 04529456NAID 110000143822 
  20. ^ 梅棹、1963年、情報産業論。
  21. ^ 梅棹忠夫、「文明の生態史観」、『中央公論』、1957年、梅棹忠夫監修、比較文明学会関西支部・編 『地球時代の文明学--シリーズ 文明学の挑戦 (1)』 京都通信社、2008年、1986年、伊東俊太郎が比較文明学会を立ち上げている。


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