崇徳天皇
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血書五部大乗経
『保元物語』にある五部大乗経の存在を語る唯一の史料は、以下の記事である。
『吉記』 寿永2年(1183年)7月16日条
崇徳院讃岐において、御自筆血をもって五部大乗経を書かしめ給ひ、件の経奥に、理世後生の料にあらず、天下を滅亡すべきの趣、注し置かる。件の経伝はりて元性法印のもとにあり。この旨を申さるるにより、成勝寺において供養せらるべきの由、右大弁をもって左少弁光長に仰せらる。彼怨霊を得道せしめんがためか。…
内容は、後白河が五部大乗経の存在を聞いて弁官に供養のための願文を起草することを命じたものである。この時期は怨霊鎮魂のため、菅原道真の例に倣い崇徳を神として祀るべきとする意見が出されていたものの、実現には至っていなかった[20]。それから程なく、後白河は神祠(崇徳院廟)の建立を命じる院宣を下している[21]。崇徳が崩御して19年も経過してから経典が出てくるのは不自然であり、経典の実物を見た人もいないことから、血書五部大乗経は存在しなかったとする説もある(山田雄司 『崇徳院怨霊の研究』思文閣出版、2001年)。
歌
- 『詞花和歌集』(八代集の第六)の勅撰を命じる。仁平元年(1151年)に完成奏覧。選者藤原顕輔。
- 『千載和歌集』(八代集の第七)に23首入集。
- 『久安百首』
- 『小倉百人一首』から。
- 『山家集』から
- あるとき(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を賜った際、許しを請うと次の歌を詠まれた。
- 最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
- 意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
- 最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
- 対して西行は次の返歌を詠んだ。
- つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
- 意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。
- つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
- あるとき(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を賜った際、許しを請うと次の歌を詠まれた。
系譜
鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子であるが、『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。ただしこれは崇徳天皇誕生後100年以上後に作られた『古事談』のみの記述であり、真偽は不明である。なお、璋子は幼少時に実父の藤原公実(法皇の従兄)と死別した後に白河法皇の養女として育てられた後に入内しており、当時の宮廷では白河法皇は璋子の父、崇徳天皇の外祖父として認識されていた(「娘」である璋子が里帰りするのは「父」法皇の御所である)とする指摘もある[22]。
崇徳天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
71 後三条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
72 白河天皇 | 実仁親王 | 輔仁親王 | 篤子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
73 堀河天皇 | 覚行法親王 | 覚法法親王 | 媞子内親王 (郁芳門院) | 源有仁 (有仁王) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
74 鳥羽天皇 | 最雲法親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
75 崇徳天皇 | 77 後白河天皇 | 76 近衛天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
- ^ 重仁親王の生母である兵衛佐殿は身分が低すぎ、かつ躰仁親王の立太子後の誕生であったために、重仁親王は崇徳天皇在位中は皇位継承の候補者には成りえなかった。また、保延年間以降、崇徳天皇が政務に参加するとともに人事などを巡って父院と対立が生じたとされる[3]。
- ^ ただし、『本朝続文粋』に所収されている藤原頼長の左近衛大将上表文の文中から頼長が「皇太子傅」を兼任していたのことが判明することから、躰仁親王の地位を確定する立太子の宣命には「皇太子」と明記されていたと推定され、譲位の宣命の表現にどれだけ有効性があるか疑問視する見方もある[3]。
- ^ 佐伯智広は近衛天皇が崇徳上皇との父子関係を維持しなければならない理由として、待賢門院流所領の継承問題があるとする。これは藤原璋子(待賢門院)から長男の崇徳上皇に継承された御願寺とその所領、崇徳上皇自身の御願寺である成勝寺とその所領などから成り、近衛天皇より先に崇徳上皇が没していればそれらの所領は「子」とみなされる近衛天皇が相続し得たとする。同様に近衛天皇没後に守仁親王ではなく父親で崇徳上皇とは同母弟であった雅仁親王が即位した理由も守仁親王に待賢門院流所領の継承資格を保持させるために雅仁からの父子継承を必要とし、別に近衛天皇の同母妹である姝子内親王との婚姻や同母姉である八条院の准母待遇を設定する事で彼女達の権利を相続する形で美福門流所領に対する継承権も与えようとしたと説く[3]。
出典
- ^ “(4767) Sutoku = 1983 LH = 1987 GC”. 2022年7月3日閲覧。
- ^ 『今鏡』第八、腹々の御子
- ^ a b c d e f 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号、日本史研究会、2012年。/所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-026238-5。
- ^ 『愚管抄』『今鏡』
- ^ 『本朝世紀』
- ^ 栗山圭子「中世王家の存在形態と院政」『ヒストリア』193号、大阪歴史学会、2005年。/所収:栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年。
- ^ 『台記』
- ^ 『愚管抄』
- ^ 『兵範記』7月10日条
- ^ 『保元物語』
- ^ 元木 2004, pp. 113–115.
- ^ 元木 2004, pp. 115–116.
- ^ 『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』
- ^ 『風雅和歌集』
- ^ 『遠島百首』
- ^ 『平安遺文』2848
- ^ a b 『百錬抄』
- ^ 『皇代記』
- ^ 山内益次郎「崇徳院慰霊」『今鏡の周辺』和泉書院、1993年。
- ^ 『吉記』寿永元年6月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年8月15日条
- ^ 樋口健太郎「「保安元年の政変」と鳥羽天皇の後宮」」『龍谷大学古代史論集』創刊号、2018年。/所収:樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02948-3。
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