岡崎城 歴史

岡崎城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 05:22 UTC 版)

歴史

江戸時代以前

  • 1452年享徳元年)または1455年康正元年):三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が北方に対する砦として龍頭山に築城。
  • 15世紀後半(文明年間初め):松平氏3代松平信光が城主西郷頼嗣を破り、西郷氏娘婿となった五男松平光重が城主となり岡崎松平家が成立。
  • 1531年享禄4年):岡崎松平家を破った松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げる。
  • 1535年天文4年):清康は尾張国の陣中で家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。子の松平広忠が跡を継ぐ。
  • 1542年(天文11年):城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。当時、や門の屋根も茅葺で、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁がめぐっていた。
  • 1549年(天文18年):広忠が死去(死因には諸説ある)。岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、山田景隆、三浦義保、糟谷備前らが城代を務めた。ただし、近年の研究ではあくまでも岡崎城主は広忠の嫡男・竹千代(後の松平元康)であったが、幼少のために統治が不可能であったために今川家が介入したと考えられている[18][19]
  • 1560年永禄3年):桶狭間の戦い今川義元が敗死すると、松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。
  • 1570年元亀元年):徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正本多重次らが城代を務めた。
  • 1590年天正18年):家康が関東に移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入る。家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し、強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。
  • 1602年慶長7年):徳川氏譜代の重臣である本多康重上野国白井より5万石で入城。以降、徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めている。
  • 1617年元和3年):3重の天守が完成する。
  • 1644年正保元年):岡崎藩主の本多忠利が石垣を完成[20]

近現代

  • 1869年明治2年):本多忠直が城主となる
  • 1873年(明治6年):廃城令によって廃城処分となり、天守、大手門、東隅櫓、土塀以下の建物が撤去された。
  • 1959年昭和34年): 鉄筋コンクリート造で復興天守が再建される。設計者は名古屋工業大学工学博士の城戸久
  • 1993年平成5年):大手門が木造復元されたが道路の関係で実際から50m離れた所に木造復元された。
  • 2006年平成18年)4月6日日本100名城(45番)に選定された。
  • 2007年(平成19年):材木町で、マンション建設に伴う発掘調査によって石垣が見つかり、日本国内で4番目の規模の城であることが判明した[21]
  • 2010年(平成22年):東隅櫓、土塀が木造復元される。
  • 2015年(平成27年):中心市街地再開発「乙川リバーフロント地区整備計画」の工事で河川敷を掘り起こしたところ石垣の一部が発見される[20]

注釈

  1. ^ 岡崎市の乙川の南側は明大寺町明大寺本町上明大寺町南明大寺町東明大寺町などの町がある。『岡崎市史 第參巻』(1927年刊行)は、「明大寺」の名の由来としてこう述べている。「明大寺、もとは妙大寺としるし、(中略)妙大寺の名は寺號より出でたるものと思はるるが、浄瑠璃姫の傳説に因んで居るのは眞僞俄かに判じ難い」[6][7]
  2. ^ オト リバーサイドテラスの階段側面に「平岩城跡(明大寺古屋敷跡)」と題する案内板が掲示されている。発掘調査時の大溝跡と堀立柱建物跡の航空写真、見取り図などにより、位置が確認できる。
  3. ^ 渥美郡大草」を額田郡と読み替えての類推[8][9]

出典

  1. ^ 岡崎市指定文化財目録”. 岡崎市. 2013年6月2日閲覧。
  2. ^ 夏目可敬編著『參河國名所圖繪 下巻』愛知県教育会、1934年。 
  3. ^ a b 岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版 - 資料編・奥付・裏表紙” (PDF). 岡崎市教育委員会 (2017年3月). 2021年12月30日閲覧。
  4. ^ オト リバーサイドテラス、階段側面の案内板「平岩城跡(明大寺古屋敷跡)」。
  5. ^ a b c 岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版 - 第2章 岡崎城跡の概要” (PDF). 岡崎市教育委員会 (2017年3月). 2021年12月30日閲覧。
  6. ^ 岡崎市明大寺町の地名の由来について知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館 (2019年10月31日). 2021年12月31日閲覧。
  7. ^ 柴田顕正 編『岡崎市史 第參巻【復刻版】』名著出版、1972年10月5日、312-317頁。 
  8. ^ 「寛政譜」新訂1巻141項。
  9. ^ 『新編岡崎市史2』563頁。
  10. ^ a b 堀江登志実. “人物探訪 七代 清康”. みかわこまち. エムアイシーグループ. 2021年12月30日閲覧。
  11. ^ 『岡崎城―城と城主の歴史』 2019, p. 5.
  12. ^ 三浦正幸監修・編集『CG復元 よみがえる天守』新人物往来社 2001年(ISBN 4-404-02767-2
  13. ^ 岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
  14. ^ 岡崎城の展示リニューアルについて”. 岡崎市ホームぺージ (2022年5月24日). 2022年5月25日閲覧。
  15. ^ “来月16日から休館 岡崎城 大河に合わせ改装”. 東海愛知新聞. (2022年5月25日). http://fm-egao.jp/tokai/220525.php 2022年5月25日閲覧。 
  16. ^ a b 服部壮馬 (2023年1月22日). “観光客初日から盛況 岡崎に大河ドラマ館開館”. 中日新聞. 2023年1月24日閲覧。
  17. ^ 観光みやげ店 おかざき屋”. 岡崎市観光協会公式サイト. 2023年1月24日閲覧。
  18. ^ 柴裕之 著「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」、黒田基樹 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-322-0 
  19. ^ 新行紀一「城代支配下の岡崎と今川部将松平元康」『新編 岡崎市史 中世』第3章第4節第5項・第6項、1989年。/所収:大石泰史 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-325-1 
  20. ^ a b c d e “岡崎城、400メートル石垣確認 国内最長、江戸期の絵図通り”. 中日新聞. (2016年4月5日). http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016040590085036.html 2016年4月5日閲覧。 
  21. ^ a b 岡崎市議会 平成19年12月 定例会 12月04日-22号”. 岡崎市 会議録検索システム. 2021年12月31日閲覧。
  22. ^ a b 東海新聞』1958年4月11日、1面、「落花の城跡でクワ入れ式 舞あがる平和の鳩 復興完成と岡崎城地鎮祭」
  23. ^ 愛知新聞』1959年3月31日、1面、「参列者一堂讃美の声しきり 岡崎城復元完工式盛大に終る」。
  24. ^ 『中部日本新聞』1959年2月19日付朝刊、三河版、4面、「岡崎城物語 (7)」。
  25. ^ 『中部日本新聞』1959年2月20日付朝刊、三河版、4面、「岡崎城物語 (8)」。
  26. ^ 岡崎城 | 施工実績 | 清水建設
  27. ^ 沿革|岡崎城(天守閣)|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
  28. ^ a b c 『愛知新聞』1959年3月25日、1面、「勇姿、花をふんまえて きょう岡崎城が完成」。
  29. ^ 中部日本新聞』1958年4月11日付朝刊、三河版、4面、「平和のシンボル 輝く〝復興碑〟 お城跡では盛大に地鎮祭」。
  30. ^ 菅生曲輪・切通し発掘調査位置図”. 岡崎市. 2015年7月9日閲覧。






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