岡崎城
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概要
三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより)は永享年間(1429年~1441年)に、菅生川(乙川)南岸の明大寺付近に居館を構えた[5][注 1]。この居館は「平岩城」と呼ばれた。位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康像が置かれた広場辺りであることが判明している[3][注 2]。
1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)にかけて、西郷稠頼は、菅生川北岸の龍頭山(標高約24メートル)と呼ばれる半島状段丘の先端に、北方に対する砦を築いた。築城当時は、菅生川南に東海道が通り、明大寺が「岡崎」と呼ばれた。つまり、西郷氏の居館が旧岡崎城に当たることとなる[5]。
3代目当主の西郷信貞(松平昌安)は明大寺の平岩城を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配した[注 3]。
1524年(大永4年)、松平清康の命を受けた、家臣大久保忠茂等は奇襲により一夜にして、信貞の持城である山中城を落城。清康は信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移した[10]。
1530年~1531年(享禄3~4年)頃、清康は明大寺より龍頭山の砦へと本拠を移し、本格的な岡崎城を構えた。これが現在の岡崎城である。清康は、明大寺の地から岡崎松平家菩提寺の大林寺を城北に、安城からは甲山寺を城の北東にそれぞれ移し、菅生川の南に龍海院を建て周辺を整備した[11][5][10]。
龍頭山の岡崎城は、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている[12]。この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。
本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていた。
存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模であったが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となった。城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみである。敷地は龍城神社、岡崎公園として整備された[13]。
2010年(平成22年)3月、東隅櫓が再建された。望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺き。壁は白漆喰塗り。高さ約9.4メートルで、かつて東曲輪だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。1781年(天明元年)の「岡崎城絵図」を基本資料としているが、東隅櫓の図面は現存しなかったため、愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の野原櫓などの形式を参考にして、江戸時代の工法を忠実に再現し建設した。城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円であった。
2022年(令和4年)5月24日、市は、翌年の大河ドラマ『どうする家康』の放送にあわせ、岡崎城の展示リニューアルを行うと発表した。1〜4階の展示と5階展望台の刷新と外壁塗装、トイレの増設、照明設備のLED化などを行う。同年6月16日から改装工事に入った。改装費は1億7,777万円[14][15]。
2023年(令和5年)1月21日、リニューアルオープンした。大河ドラマの放送にあわせて同様に整備された三河武士のやかた家康館も「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてリニューアルオープンした。「観光みやげ店 おかざき屋」は花時計の北側に移転新築された[16][17]。 2023年現在岡崎市は、本丸、持仏堂曲輪、清海堀、風呂谷曲輪、坂谷曲輪の一部、二の丸の一部、三の丸の一部、東曲輪、隠居曲輪、管生曲輪の一部、龍城堀、総構えの一部、管生川端石垣、大林寺郭堀、総堀、管生川の復元計画や籠田総門、松葉総門、御馳走屋敷の木造復元計画もあるが予算の関係で天守の木造復元計画はない。
注釈
出典
- ^ “岡崎市指定文化財目録”. 岡崎市. 2013年6月2日閲覧。
- ^ 夏目可敬編著『參河國名所圖繪 下巻』愛知県教育会、1934年。
- ^ a b “岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版 - 資料編・奥付・裏表紙” (PDF). 岡崎市教育委員会 (2017年3月). 2021年12月30日閲覧。
- ^ オト リバーサイドテラス、階段側面の案内板「平岩城跡(明大寺古屋敷跡)」。
- ^ a b c “岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版 - 第2章 岡崎城跡の概要” (PDF). 岡崎市教育委員会 (2017年3月). 2021年12月30日閲覧。
- ^ “岡崎市明大寺町の地名の由来について知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館 (2019年10月31日). 2021年12月31日閲覧。
- ^ 柴田顕正 編『岡崎市史 第參巻【復刻版】』名著出版、1972年10月5日、312-317頁。
- ^ 「寛政譜」新訂1巻141項。
- ^ 『新編岡崎市史2』563頁。
- ^ a b 堀江登志実. “人物探訪 七代 清康”. みかわこまち. エムアイシーグループ. 2021年12月30日閲覧。
- ^ 『岡崎城―城と城主の歴史』 2019, p. 5.
- ^ 三浦正幸監修・編集『CG復元 よみがえる天守』新人物往来社 2001年(ISBN 4-404-02767-2)
- ^ 岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
- ^ “岡崎城の展示リニューアルについて”. 岡崎市ホームぺージ (2022年5月24日). 2022年5月25日閲覧。
- ^ “来月16日から休館 岡崎城 大河に合わせ改装”. 東海愛知新聞. (2022年5月25日) 2022年5月25日閲覧。
- ^ a b 服部壮馬 (2023年1月22日). “観光客初日から盛況 岡崎に大河ドラマ館開館”. 中日新聞. 2023年1月24日閲覧。
- ^ “観光みやげ店 おかざき屋”. 岡崎市観光協会公式サイト. 2023年1月24日閲覧。
- ^ 柴裕之 著「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」、黒田基樹 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-322-0。
- ^ 新行紀一「城代支配下の岡崎と今川部将松平元康」『新編 岡崎市史 中世』第3章第4節第5項・第6項、1989年。/所収:大石泰史 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-325-1。
- ^ a b c d e “岡崎城、400メートル石垣確認 国内最長、江戸期の絵図通り”. 中日新聞. (2016年4月5日) 2016年4月5日閲覧。
- ^ a b “岡崎市議会 平成19年12月 定例会 12月04日-22号”. 岡崎市 会議録検索システム. 2021年12月31日閲覧。
- ^ a b 『東海新聞』1958年4月11日、1面、「落花の城跡でクワ入れ式 舞あがる平和の鳩 復興完成と岡崎城地鎮祭」
- ^ 『愛知新聞』1959年3月31日、1面、「参列者一堂讃美の声しきり 岡崎城復元完工式盛大に終る」。
- ^ 『中部日本新聞』1959年2月19日付朝刊、三河版、4面、「岡崎城物語 (7)」。
- ^ 『中部日本新聞』1959年2月20日付朝刊、三河版、4面、「岡崎城物語 (8)」。
- ^ 岡崎城 | 施工実績 | 清水建設
- ^ 沿革|岡崎城(天守閣)|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
- ^ a b c 『愛知新聞』1959年3月25日、1面、「勇姿、花をふんまえて きょう岡崎城が完成」。
- ^ 『中部日本新聞』1958年4月11日付朝刊、三河版、4面、「平和のシンボル 輝く〝復興碑〟 お城跡では盛大に地鎮祭」。
- ^ “菅生曲輪・切通し発掘調査位置図”. 岡崎市. 2015年7月9日閲覧。
固有名詞の分類
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