宇治橋 (伊勢市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 08:42 UTC 版)
饗土橋姫神社
宇治橋西側(宇治今在家町)に内宮所管社の饗土橋姫神社がある。祭神は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)で、宇治橋を守護する神社とされる[6][7]。社殿は内宮に準じ内削ぎの千木と、4本で偶数の鰹木を持つ板葺屋根の神明造で東面し、宇治橋を向いている。
中世に宇治橋が架けられた時に宇治橋の守護神として祀られたとする解釈が一般的であるが、それ以前は船着き場の守護神であったとする説がある。
宇治橋渡始式
新しい宇治橋が完成すると橋の無事を祈り、宇治橋を最初に通行する式典の宇治橋渡始式(うじばしわたりはじめしき)が行われる。当初は長寿の老人が最初に渡っていたが、1823年(文政6年)の両国橋の渡初式に3代揃った夫婦が最初に渡ったことにならい、以後は3代揃った夫婦が最初に渡るようになった。
構造
宇治橋は橋脚杭のみがケヤキで、他はヒノキで作られている。橋板は近世の記録では365枚の数字があるが、1969年(昭和44年)の架け替えでは476枚とされた。長さは101.8mで、幅は1949年(昭和24年)に架け替えられた時は7.88mであったが、参拝者の増加に対応するべく1969年(昭和44年)の架け替えでは8.42mに拡幅され、橋桁が5本から7本へ増やされた。
下部構造
1969年(昭和44年)の架け替えの際にコンクリートの基礎が初めて採用された。景観に配慮して基礎表面は石畳で覆われている。
橋脚は橋脚杭3本、水貫4本、筋交貫4本と梁1本から構成されており、梁の上に載せた7本の台持木に橋桁が渡されている。橋脚13組が橋体を支える14径間連続木桁橋の構造である。また、梁の両木口には小屋根と梁鼻隠が取付られ、風雨による劣化を防いでいる。
上部構造
欄干は男柱の上に取付られた16基の擬宝珠で装飾される。西詰北側の擬宝珠には、橋の安全を願う萬度麻(まんどぬさ)という御札が納められている[1]。この擬宝珠は仏教的な名称を嫌う神宮内部では葱花型金物と呼ばれている。造替にあたり他の部材が全て新調されても、擬宝珠だけは磨き上げられるのみで、擦り切れるまで繰り返し使用される。
近年は宇治橋の橋板の厚さを15cmにしているが、年間400万人前後の参拝客が通行するため橋板の摩耗が激しく、20年間では約6cm摩耗する。靴ではなく草履での通行が大部分であった明治以前はこれほど摩耗しなかったという。
木除杭
川の増水などでの流木などが橋脚に衝突し損傷しないように、宇治橋と風日祈宮橋(風日祈宮参道の橋)の上流側に数本の杭が立てられており、木除杭(きよけぐい)と呼ばれる。
歴史
宇治橋は内宮創建当初には架けられておらず、五十鈴川の浅瀬に石を並べ渡っていたと考えられている。雨で増水すると渡れなくなり祭事に影響するため、架橋が望まれていた。斎王が神宮を運営していた時代には朝廷の公費で運営されていたが、五十鈴川への架橋の費用は認められなかった。
内宮前の五十鈴川の橋の最古の記録は1190年代(建久年間)に書かれた『皇太神宮年中行事』の津長神社(つながじんじゃ、現在は内宮摂社)での「橋」となる。続いて南北朝時代に斎王が廃止された頃の1342年(康永元年)に書かれた『伊勢太神宮参拝記』となるが、いずれにせよどのような橋であったかは記されておらず定かではない。これ以後は室町時代に度々流されたと記録されていることから、仮橋か水面すれすれ程度の低い橋であったと推測される。斎王廃止とともに朝廷からの運営資金が滞るようになり、式年遷宮が遅れがちになった。
室町幕府の政権が揺らぎ始め徐々に政情が不安定になると、伊勢国国司の北畠氏や志摩国の土豪などが神領(神宮の領地)を取り上げ始めた。荘園などからの収入が激減した神宮は弱体化し、1429年(正長2年)に外宮の神人(じにん、下級神職)と地下人(じげにん、村人)と合戦が生じた。これ以降、宇治山田合戦に代表される神領での争乱が多発した。北畠氏や土豪が争乱に介入して神領を次々に収奪、結果として神宮は困窮を極めた。外宮では1434年(永享6年)の第39回式年遷宮を最後に中絶となり、内宮では第40回式年遷宮が予定より11年遅れて1462年 (寛正3年)に行なわれたものの、これを最後に戦国時代には中絶され、外宮、内宮、両宮の全ての宮社が荒廃した。
神宮の荒廃を嘆いた僧尼たちが神宮の許可の得て日本中を回り、五十鈴川への架橋を主とする資金を集め始め、これらの僧尼は勧進聖(かんじんひじり、単に聖とも)と呼ばれた。聖の最古の記録は室町時代の1452年(享徳元年)の賢正と最祥の2人の僧であるが、10年以上の行脚ののちに2人とも行方不明の結果に終わった。
この2人の消息が不明になった頃に大橋勧進聖本願坊を名乗る聖が現れ、1464年(寛正5年)に大橋が完成。藤波氏経ら10人の禰宜が13,000回のお祓いを行ない、橋が末永く使えるように祈願した。「大橋」の名はこの時の記録が初出であるが、この頃には橋が何回も流されていたため、橋祈祷を行なうことが通例となっていた。この「大橋」は翌年の夏に洪水で流されてしまったため、仮橋架橋の費用として足利将軍家から100貫匁が大橋勧進聖本願坊を通じて寄進されたが、この仮橋も1年もたずに流されてしまった。
現世と来世の利益を庶民に説いて回った稲苅十穀乗賢という聖が、1477年(文明9年)に宇治橋を造営する資金の調達に成功した。沙門道順、観阿などの活動がこれに続き、守悦(しゅえつ)は8年の活動ののちに1505年(永正2年)に御裳濯橋架橋を成功させた。これら聖は宇治橋だけでなく、風日祈宮参道の風日祈宮橋も造替している。守悦法師から3代目の清順は1547年(天文16年)に御裳濯橋を造営し、戦国時代末期の1563年(永禄6年)、約150年間途絶えていた外宮の遷宮を再興させた。この功績で清順は後奈良天皇から慶光院の号を許され慶光院上人となり、守悦は初代慶光院上人と呼ばれるようになった。1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が宮川下流左岸の磯(現在の伊勢市磯町)の100石を慶光院の寺領として与えた。磯の住人には神宮式年遷宮で内宮正殿の御扉木の用材を奉曳(用材を運搬すること)する特権が与えられた。磯の住民による奉曳は慶光院曳(けいこういんびき)と呼ばれ、慶光院が明治に廃寺となったのちも受け継がれ、第62回神宮式年遷宮での御扉木は2006年に慶光院の子孫と磯の住民などにより宇治橋の前を経由して奉曳された。天正年間に海賊大名で知られる九鬼嘉隆が宇治橋奉行を務めた。
江戸時代になり大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから4年後の1619年(元和5年)には、時の将軍徳川秀忠が宇治橋を造替した。徳川幕府の政権下で日本の政情が安定すると、御師が活発に活動するようになり、安定した資金調達により式年遷宮は途絶えることはなくなり、宇治橋の造替も滞りなく行なわれた。お蔭参りが流行した頃には宇治橋五十鈴川へ投げ銭をする参拝客が多く、橋の下で投げ銭を網で拾う人が現れ網受けと呼ばれた。網受けは明治初頭に神域に相応しくないと禁止された。懐かしむ声により一時的に復活したものの、再び禁止された。
明治初期までは宇治橋の内にも民家があったが、神苑会による神苑整備の一環として退去させられた。この頃に五十鈴川は石垣で護岸され、宇治橋西側が参道口として整備された。饗土橋姫神社が山寄りに移動させられ、現在の宇治橋前の景観が整えられた。
- ^ a b c 『日本経済新聞』NIKKEIプラス1(土曜朝刊別刷り)2020年4月25日 何でもランキング:木橋 美しきシンボル/第2位:伊勢神宮の宇治橋(三重県伊勢市)日常と神聖な世界 結ぶ(2021年2月1日閲覧)
- ^ a b c “伊勢神宮宇治橋前の大鳥居完成「なぜ、遷宮後すぐ新しい鳥居ができないか?」”. 伊勢志摩経済新聞 (2014年10月3日). 2014年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月29日閲覧。
- ^ a b c d “伊勢神宮の宇治橋鳥居、20年ぶり新調 旧正殿のヒノキ使用”. 『日本経済新聞』(共同通信配信記事) (2014年10月3日). 2014年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月1日閲覧。
- ^ 『桑名市史』『関町史』
- ^ a b 「冬至の神秘 ありがたや 伊勢神宮・宇治橋に朝日」『中日新聞』朝刊2014年12月23日付(伊勢志摩版16ページ)
- ^ 『お伊勢さん125社めぐり, p. 116.
- ^ 『伊勢神宮に行こう』, p. 54.
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