勝間田清一 勝間田清一の概要

勝間田清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 13:59 UTC 版)

勝間田 清一
かつまた せいいち
生年月日 1908年2月11日
出生地 静岡県御殿場市
没年月日 (1989-12-14) 1989年12月14日(81歳没)
出身校 京都帝国大学農学部
前職 企画院官僚
所属政党日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員

在任期間 1983年12月26日 - 1986年6月2日
議長 福永健司
坂田道太

選挙区 静岡県第2区
当選回数 14回
在任期間 1947年4月26日 - 1976年12月9日
1979年10月8日 - 1986年6月2日

在任期間 1967年8月19日 - 1968年10月4日
テンプレートを表示

来歴・人物

生い立ち

静岡県御殿場市出身。勝間田氏は遠江国榛原郡勝間田庄(現在の牧之原市)の国人(領主)だったが、1476年今川義忠に反旗を翻して敗れ、一族は四散した。その末裔は細々と農業を行い暮らしを立てており、清一が生まれたときも実家は養蚕などを営む農家だった。御殿場実業学校(現:静岡県立御殿場高等学校)を経て、宇都宮高等農林学校(現:宇都宮大学)に進学し、さらに京都帝国大学(現:京都大学)へと進んだ。宇都宮時代に、マルクス主義に触れ、社会主義的思想を持ったという。

1931年京都帝国大学農学部卒業後、財団法人協調会に就職し、やがて内閣調査局に移り、そこで和田博雄と知り合った。内閣調査局はやがて企画院へと発展し、そこの調査官となった。1941年大政翼賛会組織部九州班長に就任するが、企画院事件に連座して、検挙される。

政治家として

1947年総選挙に社会党から立候補して初当選し、片山内閣では経済安定本部総務長官に任命された和田博雄の秘書官を務めた。和田が社会党に入党すると、和田派に属し、社会党分裂時も和田とともに左派社会党に属した。

以後、和田派の重鎮として活躍し、1955年10月左右・革新統一日本社会党の結成で国会対策委員長に就任。1958年、和田が政策審議会長を解任されると、和田の後任として政策審議会長を務めた。1967年、和田が政界を引退すると、和田派を継承した。同年、健康保険特例法案の賛否を巡り、佐々木更三委員長が委員長を辞任すると、佐々木派の支持で委員長に就任した。佐々木の後継委員長には江田三郎が名乗りを上げており、江田を委員長にしたくない佐々木が勝間田を後継に指名したのである。

委員長に就任した勝間田は、委員長自ら市民と対話する総対話運動を行うが、1968年参院選では、社会党は獲得議席が30議席を割る敗北を喫し、勝間田は責任をとってわずか1年で委員長辞任を余儀なくされた(後任には自身と同じ当選同期の成田知巳が就任)。

勝間田は党内では理論家として知られており、社会主義理論委員会事務局長として、「日本における社会主義への道」の策定に尽力している。その後、プロレタリア独裁を肯定するなど教条主義的な言動が目立ったが、1978年に社会主義理論センター初代所長に就任すると、今度は「日本における社会主義への道」の見直しに着手するなど、党の方針によって、彼の理論は二転三転した。

1983年衆議院副議長に選出され、1986年に政界を引退した。

1986年、社会党委員長経験者として初めて、勲一等旭日大綬章を受章。

1989年12月14日死去。81歳没。

国立国会図書館憲政資料室には彼の談話の録音速記録が残され、公開されている。

評価

戦後を代表する左翼の一人である勝間田の骨格は理論から出来ていたため、リベラルに迎合するマスコミ受けはしなかった。委員長としても大衆的な人気が出ず功績を残せないまま辞任を余儀なくされた。革新官僚として昭和研究会に参画し、企画院事件で挫折させられてきた経歴が彼の政治的な誠実さになったことで社会党以外のシンパも多かったが、同時に現実に弱い日和見主義的な行動が批判されているため評価には難しい面がある。

社会主義理論家としては国際的に認められており、ドイツ民主共和国(東ドイツ)のマルティン・ルター大学から名誉博士号を授与されている。

KGBのスパイ

ソ連から米国亡命した元KGBスパイであるスタニスラフ・レフチェンコの証言によると、勝間田はGAVRというコードネームを持つKGB工作員であったとされた[1]。また元KGBのワシリー・ミトロヒンが亡命時に持ち出した極秘資料(ミトロヒン文書)によりこの証言が裏付けられた[2]。 もっともミトロヒン文書は、ロシア革命以降からゴルバチョフ時代までの冷戦時代の英米との諜報戦、CIAの対日工作に対抗したソ連時代の諜報活動が主であった。 FSBの秘密情報の解除と異なり、マスコミからは、その真偽やゴルバチョフ政権の意図も含め詳細な報道や継続的な調査が必ずしもされていない。

その他

 

  • 勝間田は、内閣調査室の企画院事件で検挙された左派官僚であったため、1947年の衆院選立候補に際して、社会党静岡県本部から勝間田の立候補に反対する意見が出された。しかし、旧労農党出身で県本部役員の青嶋今治らの尽力によって公認を獲得している。

  1. ^ 1982年7月14日米国下院情報特別委員会聴聞会
  2. ^ Andrew, Christopher, Vasili Mitrokhin (2005). The Mitrokin Archive II: The KGB and the World. Allen Lane. ISBN 0-7139-9359-6.
  3. ^ 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、130頁。
  4. ^ 第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。
  5. ^ 財団法人千葉県史料研究財団, ed (2007). 千葉県の歴史 資料編 近現代9社会・教育・文化3. 千葉県. p. 814 


「勝間田清一」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「勝間田清一」の関連用語

勝間田清一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



勝間田清一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの勝間田清一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS