佐々木剛 佐々木剛の概要

佐々木剛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 04:57 UTC 版)

ささき たけし
佐々木 剛
本名 福井 憲雄(ふくい のりお)
別名義 八代 悠(旧芸名)
生年月日 (1947-05-07) 1947年5月7日(76歳)
出生地 日本新潟県新発田市
身長 172 cm[1]
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1968年 -
活動内容 1968年:デビュー
配偶者 あり(離婚歴あり)[2]
主な作品
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新潟県新発田市出身[5]新潟県立新発田高等学校卒業[5][6]。身長172cm(1972年3月)[7]

来歴

高校卒業後に俳優を目指して上京[4][6]東宝芸能学校に入るが[8][4]劇団民芸舞台セールスマンの死』の滝沢修の演技に影響され、新劇に転向[3]劇団NLT俳優教室1期生[8][6]、劇団俳優小劇場付属養成所を経て[3][6]高垣葵の紹介により[3]新国劇の研究生となる。同期には石橋正次がいる。

1968年、養成所時代に八代 悠の芸名でテレビドラマ『開化探偵帳』(NHK総合)で俳優デビュー[3][4]、以後もNHKのドラマに端役で出演[6]

1970年、『柔道一直線』(東映TBS)出演を機に芸名を「佐々木 剛」に改める[8][3][6]。この時期に結婚、子供を3人授かる。同年10月からは『お荷物小荷物』(朝日放送)に出演。この番組で人気俳優となる[4]

1971年NHK連続テレビ小説繭子ひとり』に出演[9]。同年7月より『仮面ライダー』(東映毎日放送)に出演。撮影中のバイク転倒事故により重傷を負った藤岡弘演じる本郷猛 / 仮面ライダーに代わって、新たな主人公の一文字隼人 / 仮面ライダー役を演じる[9][10][11]。こうして一文字 / 2号が活躍する通称「2号編」は、佐々木が劇中でとる「変身ポーズ」が爆発的な人気となり、「変身ブーム」と呼ばれる社会現象を引き起こした[4]

1972年、当初の約束を守って3月をもって『仮面ライダー』を降板し、4月開始の『黒帯風雲録 柔』(日本テレビ)で主人公・矢野浩を演じた[9]。この年、仲の良い石橋正次若林豪らと自分たちの芸能事務所「JET」を立ち上げた[7]。その後、『仮面ライダー』ではゲストとしてダブルライダー編に出演し、後番組『仮面ライダーV3』以降の仮面ライダーシリーズへも多く客演している[11]。以後、時代劇刑事ドラマへのゲスト出演を多数こなし、善悪問わず様々な役柄で俳優として活躍する[12]

しかし、1982年2月15日の早朝に当時の妻と泥酔して自宅アパートに帰宅後、ガスストーブを点けたまま寝入ってしまい、その上にバスタオルが落ちて出火、自宅アパートだけでなく隣家も全焼する大火災となる[12]。この火災で顔を含む全身の7割に及ぶ大火傷を負って何度も生死の境をさまよい、5度に及ぶ皮膚移植手術で一命は取り留めたが、顔には俳優として致命的な傷跡を負うこととなった。妻も軽い火傷を負ったものの[13]、3人の子供は妻の実家に行っていたため、被害を免れている。回復後は、声優への転向を考えて「新人と同じ扱いでどんな仕事でもこなしていきたい」と望んだが、「ベテラン俳優の起用は難しい」との理由で仕事は激減[12]。新国劇の師匠からも「役者は諦めろ」と宣告され、長らく俳優業を離れることとなる。治療・入院のための借金返済と生活の維持のため、警備員、チリ紙交換、焼き芋屋、竿竹屋と職を転々とする[12]

1984年、テレビスペシャル『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』(毎日放送)で仮面ライダー2号の声を演じるが、顔の火傷のために声のみの出演だった[11]1985年には『仮面ライダー大全集』(講談社刊)収録の座談会に参加し、モノクロ写真ながら久々にその姿を披露した[14]

その後、離婚やホームレス生活を経験し、酒を飲んで暴れたり、一日中パチンコ屋に入り浸るなど、稼いだ金をその日のうちに使い切るような荒んだ生活を送るようになる[12]

1991年には新国劇時代からの親友・石橋正次をはじめ俳優仲間の支援で、舞台『会津士魂外伝・山本覚馬』にて俳優業への復帰を果たす[15]。この際、長年のブランクのプレッシャーから、「舞台直前に逃げ出したこともあった」と後年告白しているが、これに対して石橋は「怖いと思うのが普通だ」と励まし、無事に務め上げたという。その後は1998年1月まで日光江戸村に所属俳優の演技師範代として在籍し、常設舞台での芝居と並行して若手の指導にあたった[15]

その後は、年齢を重ねた押し出しの強い風貌を武器に舞台を中心に俳優活動を展開している。

2011年、映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』で仮面ライダー2号の声を担当。映像作品で2号を演じるのは、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』以来27年ぶりとなった。

2012年、「自分を支えてくれたファンや芝居仲間のため」として、東京都板橋区大山東町に居酒屋「バッタもん」を開業。実質名義貸しのようなタレント不在の店ではなく、佐々木主宰で店に常駐して自ら酒肴を調理し、一人で店を切り盛りしている。

2016年5月7日、69歳の誕生日に再婚した[2]

人物

最初の芸名「八代悠」は、師匠の高垣葵から命名され、その後のNHK番組への出演は彼の紹介によるものだった。「佐々木剛」の芸名は、『柔道一直線』への出演が決まった際に「名前だけは強そうにしよう」として「桜木健一のライバル」という設定にちなみ、東映の企画部長だった渡邊亮徳が宮本武蔵のライバルである佐々木小次郎から、「佐々木」の姓をつけた。また、名前の「剛」の読みは「ごう」にしようとしたが、「同じ事務所に若林豪がいるので紛らわしい」との理由から、「たけし」に決めた[3]

柔道初段[6]空手初段。左利き[16]。小さいころは身体が弱く、中学時代より空手や柔道などに励んでいた[16]

1976年の『宇宙鉄人キョーダイン』の葉山竜治 / グランゼル役は配役がクランクイン直前になっても決まらず、「佐々木なら良いのではないか」という意見が出たため、決まった[12]

1982年の自宅の火事で重傷を負った際、入院費は俳優仲間で友人の林隆三渡辺篤史らが工面してくれたが、自身には貯蓄がなかったため、手術費、火元が自宅アパートゆえの修理費、妻や3人の子供たち[注釈 1]の生活費といった各種費用を工面すべく、警備員ちり紙交換、竿竹売り、石焼き芋屋などを掛け持ちし、1日16時間も働く毎日だったと語っている[注釈 2]。しかし、結局は妻子と別れることになり、世の中のすべてから見放された気持ちだったという[注釈 3]。この間、親族や関係者とも連絡を断っていたため、父の葬儀にも参列できなかった。

1991年には「佐々木とは家族ぐるみで30年来の親友」という石橋正次の呼びかけで舞台復帰したが、これについては子供時代に『仮面ライダー』を観ていたファンと接したことで、その熱い視線に対して「このまま役者を辞めるのはファンに対して失礼だ」と考えるようになり、ファンを裏切らない生き方をしようと決意したことも復帰の原動力であったと語っている[10]

顔面の火傷については、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』に仮面ライダー2号役の声優として出演した時点でもまだ、旧知の平山亨らに佐々木だと気づかれないほどの状態であったが[11]、長年の皮膚移植治療でかなり回復している。佐々木は「おかげで本当に改造人間になってしまった気分」と語る一方、「火傷による挫折と復帰で、それまでの自分を大いに反省した」と述懐している。

歌手としてシングル盤2枚をリリースしている。また、アルバム『石ノ森章太郎・男も泣けるTV主題歌集』(1998年)には佐々木の歌う『仮面ライダー』主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」が収録されているほか、「好きな言葉」として、「我が幸福は今…夢の途上」と書き記している。


注釈

  1. ^ 子供たちとは、『お笑いオンステージ』のコーナー「減点ファミリー」で共演したことがある[17]
  2. ^ 客の中には「『仮面ライダー』に出ていた佐々木さんですよね?」と尋ねてくる者もいたが、そんな時は決まって「よく似ていると言われる。佐々木剛は死んだ」と自分の存在自体を亡くすように答えたという[18]
  3. ^ 現在は「妻と別れても子供たちとは親子ですから」と子供と交流を持っている様子が、自伝『一文字隼人』内で書かれている[要ページ番号]
  4. ^ 声の出演。

出典

  1. ^ 『日本タレント名鑑2004』VIPタイムズ社、2004年、167頁。ISBN 978-4990124229 
  2. ^ a b 佐々木さん結婚式|岡崎徹|新着情報|岡崎徹 Official site Welcome Jungle
  3. ^ a b c d e f g 「東映ヒーローミュージアム 第1回 宇宙鉄人キョーダイン」『東映ヒーローMAX』Vol.1、辰巳出版、2002年、88 - 89頁、ISBN 978-4886417312 
  4. ^ a b c d e f g h 仮面ライダー怪人大画報 2016, p. 190, 「仮面ライダースタッフ・キャスト人名録2016年版」
  5. ^ a b c 『日本映画俳優全集 男優編』キネマ旬報社、1980年、240頁。 
  6. ^ a b c d e f g 『福島民報』1970年3月10日付朝刊、7面。
  7. ^ a b 内外人気スターからバレー選手まで 決定版STアイドル名鑑 佐々木剛」『週刊セブンティーン』1972年3月14日号、集英社、112頁。 
  8. ^ a b c 岡謙二 1999, p. 54.
  9. ^ a b c 岡謙二 1999, p. 55.
  10. ^ a b c d e f OFM仮面ライダー2 2004, p. 26, 「主演俳優の素顔5 佐々木剛」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 仮面ライダー1971-1984 2014, pp. 94–97, 「INTERVIEW 佐々木剛」
  12. ^ a b c d e f 岡謙二 1999, p. 60.
  13. ^ 佐々木剛 1998, p. 175.
  14. ^ 大全集 1986, pp. 226–231, 「スペシャルSTAFF CAST座談会 仮面ライダーを語る」
  15. ^ a b 岡謙二 1999, p. 61.
  16. ^ a b c d e f g h 堤哲哉 編『仮面ライダーV3カード』日本文芸社、1998年7月25日、172-173頁。ISBN 4-537-02642-1 
  17. ^ 『お笑いオンステージ』1981年10月11日放送回「Uターンおやじの今川焼」 2014年8月現在NHKアーカイブスの「番組公開ライブラリー」で視聴可能。
  18. ^ テレビ東京系『ありえへん∞世界』(2012年11月13日放送分) (cache)舞台「会津士魂」- ありえへん∞世界”. TVでた蔵(ウェブ魚拓によるキャッシュ). 2013年11月2日閲覧。
  19. ^ a b 仮面ライダー怪人大画報 2016, pp. 62–66, 「仮面ライダーを育てた三賢人I 平山亨
  20. ^ 岡謙二 1999, pp. 55–56.
  21. ^ NHKBS日めくりタイムトラベル1971年)編&KKベストセラーズ刊「語れ!仮面ライダー」内のインタビューより[要ページ番号]。第15・17話の変身ポーズは、ベルトを出してから変身ポーズを取っている。
  22. ^ OFM仮面ライダー9 2004, p. 29, 「岡田勝」.
  23. ^ 岡謙二 1999, p. 63.
  24. ^ a b “『シン・仮面ライダー』に仮面ライダー2号・一文字隼人役の佐々木剛さんが「別物で不愉快だった」と苦言、今も感じるヒーロを演じた責任”. 週刊女性PRIME (主婦と生活社). (2023年5月7日). https://www.jprime.jp/articles/-/27660 2023年5月8日閲覧。 
  25. ^ 京本政樹『京本政樹のHERO考証学』バンダイ〈B-CLUB SPECIAL〉、1992年7月1日、121頁。ISBN 489189234X 
  26. ^ 岡謙二 1999, p. 56.


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