三韓征伐 解釈・研究史

三韓征伐

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解釈・研究史

720年に完成した『日本書紀』には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の従属国に入ったと記録されている。『日本書紀』の記述は[58]江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分の一つとした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行武家事紀』など)がある。

戦前戦中を通じて、小学校で配布された国定教科書などで三韓征伐は史実として教育された。

津田左右吉は実証的歴史学の観点から、記紀を研究したが、1939年(昭和14年)に津田が『記紀』における神話の人物や古代天皇、聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜三井甲之らが不敬罪として攻撃した[59]。政府は、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分にした[60]。同年に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄出版法違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。

戦後史学はマルクス主義の影響を受けた唯物史観の擡頭により、戦前戦中の皇国史観は排除され、津田による説話論も見直され、神功皇后の存在は後世に再構成されたものとされた。

津田左右吉と新羅征討説話論

津田左右吉は1948年に刊行された『日本古典の研究』において、新羅征討を中心とする神功皇后についての記紀の記載を、後世になって添加されたものが多く、日本が新羅を一時圧服したのは事実ではあるが、神功皇后伝説自体は「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたもの」としたうえで、伝説の成立時期を6世紀の継体朝や欽明朝とした[61][62]

直木孝次郎による再検討

直木孝次郎は津田の分析を継承して、昭和34(1959)年4月に「神功皇后伝説の成立」を『歴史評論』に104号に発表した[63]

直木は、4世紀末に倭国が新羅を攻撃した歴史的事実と、神功皇后による新羅征討の伝承が一致することや、また津田の継体朝や欽明朝成立説では説明できないことが少なからず存在することを指摘したうえで[64]、6世紀以降、特に推古天皇以降の史実との関係が深いことから、この頃に伝承が形成されたとしている[65]

高句麗の戦争伝承との関連

直木は、応神天皇期に大和政権が新羅を圧倒したことは事実また定説であり、神功皇后伝説と史実が無関係と論ずることはできないが、新羅征伐の記事に高句麗との戦争が記載されていないことに着目して、次のように考察した[66]。倭国が高句麗と戦争したことは広開土王碑文などから史実であるが、だとすれば、記紀における新羅征討の箇所で、高句麗について記載がない、またはほとんど問題とされていないことは不自然である[67]。4世紀末に倭国が新羅侵攻を行ったことは事実であるが[67]、当時の倭国の最大の強敵は高句麗であったし、4世紀末から5世紀初頭における半島進出が伝承として記載されるのであれば、「建国まもない弱小の新羅に対する勝利よりも、強大勇武な高句麗との決戦の物語が伝承されるのが当然ではなかろうか」とし、新羅征討のみが伝承されたことと、高句麗との決戦が伝承されなかったことに着目し[67]、三韓征伐の記述が成立した背景について、直木は、「5世紀末期以来、新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要」が出て来たとした[68]

神功皇后の実在性

また、神功皇后の実在性について、神功皇后は仲哀天皇の死後、政治軍事の実権を握り、応神天皇を出産したあとも、政権の中心にあったと記録されているが、推古天皇の即位以前にこのような女帝が登場する例がないことなどから、推古時代以降の女帝をモデルとして構想されたのではないかという説を提唱した[69]。また、神功皇后自らが軍を指揮している点については、7世紀中葉に斉明天皇が百済救援と新羅攻撃のために北九州に出征したことが唯一の例であり、不自然であるとも指摘している[70]

このように直木は、新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した願望が原動力となって、新羅征討の物語になったとする[61]。また、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するために、対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、物語の形成を促進したとし、津守氏と住吉神社や香椎宮など様々な伝承が加えたと主張している[61]。三韓征伐説話は、新羅が日本へ朝貢していたことや、日本が朝鮮半島で闘った記憶、女帝・斉明天皇が新羅遠征のために筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作・脚色されたものとしている(上田正昭直木孝次郎説)[71]

この直木による仮説と解釈については、井上光貞が同昭和34年に刊行された『真説日本歴史 二巻 万葉の世の中』の座談会において批判した[72]が井上光貞は、直木説を基本的に認めており、神功皇后の物語が完成したのは、斉明天皇が660年に筑紫に遷幸し唐と新羅の戦いに備えた7世紀以降の事だと述べている(『日本国家の起源』)[73]。その後、藤間生大、米沢康、岡本堅次、吉井良隆、二宮正彦、塚口義信の研究が続いた。

新羅の「蕃」視

田村圓澄は神話の造作時期を天武 - 持統期とし[74]、当時の新羅は倭国への従属から抜け出し新羅王と倭王が対等であったが、日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定、その一環として三韓征伐が造作されたと主張する[74]

鈴木英夫は『日本書紀』編纂時の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたと主張し、その事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の中国王朝の史書『宋書、梁書』にある記述が成立したと主張する[75]

なお、この他国を「蕃国」視する意識の成立に関しては、堀敏一は『日本書紀』が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてを朝貢と認識すると指摘する[76]山内弘一はこのような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在したことを指摘している[77]

梁職貢図の発見

2011年、失われていた梁職貢図が発見された。同書には新羅について韓や倭の属国であったと記載されており、三韓征伐に一定の裏づけを与えるものとなっている。

当時の国力の国際比較

375年頃の半島図

また武光誠は、4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗倭国に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであるとしている[78]。当時の新羅の領域は北九州と同程度で、百済も新羅の二倍程であった[78]。また、新羅にとって、自国と同程度の広さの北九州と中国・四国・近畿地方を領土とする大和朝廷は脅威であった[79]


  1. ^ 倉塚曄子によると神功皇后は「仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公、また応神天皇の母とされる」とする。株式会社平凡社改訂新版 世界大百科事典「神功皇后」[1]
  2. ^ 文学博士で日本史学者の塚口義信によれば神功皇后伝説は「古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜郡に居住した古代豪族息長氏の伝承などが加わり、さらに7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる」とする。小学館日本大百科全書(ニッポニカ)「神功皇后」[2]
  3. ^ 山川出版社「山川日本史小辞典改訂新版」によれば神功皇后は記紀伝承上の人物であり、朝鮮出兵の説話は「6世紀後半以後に現在のかたちにまとめられた可能性が強い。しかし朝鮮半島との関係についての「日本書紀」の記事には、百済からの七枝刀(ななつさやのたち)献上の話など、干支二運、すなわち120年くり下げると史実にあうものがあることも指摘されている」としている。コトバンク・山川出版社・山川日本史小辞典改訂新版「神功皇后」[3]
  4. ^ 儺はナ、ダとも読む。[4]
  5. ^ 日本書紀(二)、岩波文庫,131頁
  6. ^ 初等科国史1943年版上巻
  7. ^ 風土記日本古典文学大系2,秋本吉郎校注、岩波書店,1958年(1991年第35版),482-483頁。
  8. ^ 日本書紀(二)、岩波文庫,2001年,173頁
  9. ^ 以上、日本書紀神功62年条百済記からの注釈
  10. ^ a b c d 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁
  11. ^ 日本思想大系』「寺社縁起」の巻に収録
  12. ^ 村井(1999)
  13. ^ 『旧唐書』百済伝
  14. ^ 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、馬韓割其東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。(辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、馬韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。)
  15. ^ 「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界以居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」『北史』新羅伝
  16. ^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  17. ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院朝鮮日報 2007年6月4日。東北工程参照。
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。新羅本紀
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 岩波文庫「日本書紀」二(1994年、2001年第八版)。
  20. ^ 上垣外 2013, p. 70.ほか但馬国、肥後国玉名郡とも比定される
  21. ^ 上垣外 2013, p. 73.
  22. ^ 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
  23. ^ 日本書紀』巻九・神功皇后摂政前紀。岩波文庫「日本書紀」(二),151頁注釈,(1994年、2001年第八版)。岩波文庫版『日本書紀』によれば、「波沙」は婆娑尼師今のことで、「尼師今」は王号で、すなわち「波沙」と「婆娑」は同一かとしている
  24. ^ 李成市 『東アジア文化圏の形成』 山川出版社〈世界史リブレット 7〉、2000年
  25. ^ 李成市『東アジア文化圏の形成』、山川出版社<世界史リブレット17>、2000年。『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000。および学習院大学東洋文化研究所 Web版『学東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』参照
  26. ^ 景初2年(238年)記事。井上訳注1980、p.61.註9
  27. ^ 秦氏参照。黒板勝美,国史大系編修会編 『国史大系. 第1巻 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民説は、『後漢書』辰韓伝、『三国志魏書』辰韓伝、晋書に記述が存在している。
  28. ^ 一礼部を「一利郡」と解して慶尚北道星州郡星州面に比定する説がある。(→井上訳注1980 p.66)
  29. ^ 伊西古国とも。慶尚北道清道郡とも。
  30. ^ 新羅本紀・基臨尼師今10年(307年)条に「復国号新羅。」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖赫居世居西干即位紀において「徐那伐」と号し(紀元前57年)、第4代脱解尼師今金閼智を得たとき(64年)に「鶏林」と号したことが見える。第17代奈勿尼師今の時代に前秦に朝貢してからは「新羅」が国際的に通用する国号となったと見られているが、第22代智証麻立干の時代にも国号を「新羅」と定めたという記事が見える。
  31. ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年(311年)1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2年(285年)2月条、味鄒尼師今2年(263年)正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  32. ^ 三国史記』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
  33. ^ 大平裕はこの年の侵攻を神功皇后による新羅征討に相当するとした。『日本古代史 正解』講談社,2009年,184頁。
  34. ^ a b c d e f g 好太王好太王碑参照
  35. ^ 『三国史記』「百済本紀」
  36. ^ 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年,44頁
  37. ^ 『宋書』倭国伝
  38. ^ 『宋書』文帝紀
  39. ^ 『宋書』夷蛮列伝
  40. ^ 日本古典文学大系『日本書紀』の注
  41. ^ “好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 吉村明大教授「改竄論争に終止符」”. 読売新聞(東京版朝刊文化面) (読売新聞社): p. 19. (2006年4月14日). "中国社会科学院の徐建新氏は、「酒匂拓本と全く同じであり、改竄は全く無かった」ことを証明した" 
  42. ^ 徐建新「好太王碑拓本の研究」東京堂出版、2006
  43. ^ 好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 「改竄論争に終止符」『読売新聞』 2006年4月12日12面
  44. ^ a b c d 浜田耕策「4世紀の日韓関係」第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年2月閲覧)。また 九州大学 21世紀COEプログラム(人文科学)「東アジアと日本:交流と変容」HP#第3回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断ゼミ・研究会(2005/03/29)#浜田耕策「七支刀銘文の語るもの」
  45. ^ 「聖音(又は晋)や「旨」の文字を銘記
  46. ^ a b 『古代の日朝関係』(塙選書)1989年
  47. ^ ほか、福永光司『道教と古代日本』1987年(昭和62年)、人文書院。佐伯有清『古代史演習 七支刀と広開土王碑』1977、吉川弘文館
  48. ^ 2011年に欠落の少ない張庚『諸番職貢圖巻』が発見された。
  49. ^ 榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収1969年9月)。榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)1月号。『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年1月)
  50. ^ 神功伝説を参照
  51. ^ 御津の歴史たつの市観光協会 御津支部
  52. ^ 『兵庫県神社誌中巻』、『姫路市史』第二巻、昭和45年,194-195頁
  53. ^ 播磨鑑、播磨名所巡覧図絵、古跡便覧。『姫路市史』第二巻、昭和45年,195頁
  54. ^ 『姫路市史』第二巻、昭和45年,195-196頁
  55. ^ a b 「峯相記」『姫路市史』第二巻、昭和45年,196頁
  56. ^ a b c d 井上舞 2009, p. 71.
  57. ^ a b 山口真琴「播磨ナショナリズムと神功皇后伝説―『峯相記』序説」プロブレマティーク―,III<文学/教育3>,2002年
  58. ^ 『読売新聞』2004年2月6日
  59. ^ 蓑田胸喜「津田左右吉氏の大逆思想」。石井公成「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)
  60. ^ 裁判の経過は向坂逸郎 編『嵐のなかの百年 学問弾圧小史』(勁草書房、1952年)や家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店、1988年)の第五編「記紀批判への刑事弾圧と津田の対応」に詳しい。
  61. ^ a b c 直木(1988)
  62. ^ 直木(1988),76-77頁
  63. ^ のち「日本古代の氏族と天皇」昭和39年、塙書房、および、「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年に所収
  64. ^ 直木(1988),77頁
  65. ^ 直木(1988),100-101頁
  66. ^ 直木(1988),78頁
  67. ^ a b c 直木(1988),79頁
  68. ^ 直木(1988),83頁
  69. ^ 直木(1988),84-5頁
  70. ^ 直木(1988),85頁
  71. ^ 直木孝次郎『神話と歴史』(2006年吉川弘文館)
  72. ^ 「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年,105頁
  73. ^ 天皇の歴史1 神話から歴史へ 講談社学術文庫 2017/12/13 P121
  74. ^ a b 田村(2006)
  75. ^ 鈴木(1991)
  76. ^ 堀敏一 『東アジアのなかの古代日本』
  77. ^ 山内(2003)
  78. ^ a b 武光誠『日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか』新人物文庫,2010年,21頁
  79. ^ 武光,同書、22頁
  80. ^ a b 上垣外 2013.
  81. ^ a b c d 上垣外憲一「倭人と韓人」講談社学術文庫,2003年,135-137頁(原本は「天孫降臨の道」1986年、筑摩書房)






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