一川保夫
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一川 保夫 いちかわ やすお | |
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防衛大臣就任に際して公表された肖像写真 | |
生年月日 | 1942年2月6日(82歳) |
出生地 | 日本 石川県小松市 |
出身校 | 三重大学農学部 |
前職 | 国家公務員(農林水産省) |
所属政党 |
(自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (自由党→) (民主党(小沢グループ)→) 立憲民主党 |
称号 |
農学士(三重大学・1965年) 旭日重光章 |
親族 |
一川保正(父) 一川政之(子) |
第9代 防衛大臣 | |
内閣 | 野田内閣 |
在任期間 | 2011年9月2日 - 2012年1月13日 |
選挙区 | 石川県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2007年7月29日 - 2013年7月28日 |
選挙区 | 比例北陸信越ブロック(石川2区) |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1996年10月25日[1] - 2005年8月8日 |
選挙区 | 小松市選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1991年4月30日 - 1996年10月1日 |
衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、防衛大臣(第9代)、参議院災害対策特別委員長、民主党参議院政策審議会長、同参議院幹事長、同幹事長代理、同石川県連代表[2]、石川県議会議員(2期)等を歴任。
来歴
1942年に石川県小松市に生まれる。石川県立松任農業高等学校を卒業後、三重大学農学部農業土木学科を卒業した。1965年に農林省(現農林水産省)に入省し、以後25年間勤務する[3]。1990年に農林水産省を退官した。
1991年4月に父・一川保正の後を継いで石川県議会議員選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選。石川県議会では石川県選出の奥田敬和系列に属した。1993年6月に奥田が自民党を離党したのに従い、一川は石川県議会の同僚議員である金原博や宇野邦夫らとともに自民党を離党し、新生党結党に参加した。翌1994年12月に新生党が解党したことにより新進党結党に加わった。
1996年10月に奥田の推挽により石川県議を辞職し、第41回衆議院議員総選挙に石川2区から新進党公認で出馬した。石川2区では森喜朗に敗れるが、重複立候補していた比例北陸信越ブロックで復活し、初当選。衆院選後、奥田が後見役を務める羽田孜と、新進党党首の小沢一郎の対立が激化した。羽田や奥田らは新進党を離党して太陽党を結成するが、一川は新進党に残留し、以後は小沢の側近として行動を共にする。
1997年12月に小沢党首が突如新進党の解党を宣言し、自由党結党に参加した。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙では、石川県選挙区で民主・自由・社民・さきがけの4党推薦の岩本荘太が現職の沓掛哲男を破り当選。参院選後に奥田が死去すると、補欠選挙に奥田敬和の長男・奥田建を擁立して当選させ、石川県の非自民勢力の中心人物となった。2003年9月の民由合併により民主党に入党した。
2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では、石川2区で森に敗れ、比例復活もできず落選したが、石川県連代表の職には留まった。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から出馬し、自民党公認の矢田富郎を約4千票の僅差で破り初当選。当初石川県連は別の候補者擁立を模索していたものの不調に終わり、やむなく県連代表の一川が擁立された。
2010年9月、輿石東参議院議員会長の下で参議院政策審議会長に就任した[4][5]。
2011年9月に成立した野田内閣で防衛大臣に任命され初入閣したが、就任直後から閣僚としての資質が問われる言動が相次いだ(#防衛大臣としてを参照)。一川は「防衛相としての本来の責任を問われる致命的なものはない」として辞任する考えがないことを強調し[6]、不適切発言で更迭した元沖縄防衛局長を停職40日の懲戒処分とすることや、監督責任を取る形で自身の在職中の大臣給与を全額返納することを発表したが[7]、第179回国会会期末の12月9日に参議院で問責決議案が可決された。任命者である野田佳彦内閣総理大臣は問責決議案の可決後も一川と山岡賢次国家公安委員長兼消費者担当大臣を更迭しない意向を示した[8]。
同年12月20日、東日本大震災で精力的な慰問活動を行った歌手・長渕剛を防衛省に招き感謝状を贈呈するとともに同省講堂内で初となるライブを行った。しかし、3日前の12月17日には北朝鮮の金正日総書記の死去が発表され情勢が緊迫しており、当日は自衛隊南スーダン派遣や空自次期主力戦闘機の機種など防衛省関連の重要事項が閣議決定されたばかりであったことから、批判の声が上がった[9]。
2012年1月13日の内閣改造により在任4か月で大臣を退任することとなり、1月16日の民主党議員との会合での挨拶で「官僚主導にはじき出された」とこぼした[10]。1月24日の参議院議員総会で、輿石東幹事長が一川を参議院幹事長に起用することを提案し、了承された[11]。4月23日の役員会で、消費増税法案の閣議決定に抗議し辞表を提出した鈴木克昌幹事長代理の後任に起用されることが決まり(参議院幹事長と兼任)、輿石と小沢のパイプ役を担うこととなったが[12]、7月の小沢による国民の生活が第一結党は食い止められなかった。
2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では、社民党県連合と政策協定を結んで支持を受けたが[13]、自民党新人の山田修路に3倍近い差をつけられ大敗し、落選[14]。
2014年4月、旭日重光章を受章。同年12月の第47回衆議院議員総選挙において比例北陸信越ブロックに立候補したものの、落選。
2022年時点では立憲民主党の石川県連顧問を務める[15]。
経歴
- 三重大学農学部農業土木学科卒業
- 1965年4月 農林省入省
- 1977年5月 北陸農政局氷見農業水利事業所工事課長
- 1979年4月 北陸農政局建設部水利課課長補佐
- 1980年10月 構造改善局総務課課長補佐(水資源開発公団総務班担当)
- 1983年4月 構造改善局建設部整備課課長補佐(区場整備第二班)
- 1985年4月 北陸農政局建設部設計課長
- 1986年4月 北陸農政局次長
- 1987年10月 水質源開発公団企画部次長
- 1989年4月 構造改善局建設部防災課災害対策室長
- 1990年 退官
- 1991年 石川県議会議員初当選
- 1996年 衆議院議員初当選。3期連続当選。
- 2007年 参議院議員初当選
- 2013年 参議院議員落選
- ^ 『官報』特別号外第12号、平成8年10月25日「平成8年10月20日執行の衆議院比例代表選出議員の選挙における衆議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件(中央選挙管理会告示第24号)」
- ^ “民主党石川県総支部連合会 政治資金収支報告書(平成24年分定期公表)” (PDF). 政治資金センター. 2019年12月5日閲覧。
- ^ a b c 「農家の長男旧農林省出身」『朝日新聞』45024号、12版、朝日新聞東京本社、2011年9月3日、5面。
- ^ “民主党:参院幹事長と政審会長人事を了承”. 毎日新聞. (2010年9月27日). オリジナルの2010年9月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ “民主参院人事、「小沢色」全開 首相への意趣返しか”. 朝日新聞. (2010年9月27日). オリジナルの2010年10月1日時点におけるアーカイブ。
- ^ “一川防衛相「責任問われる致命的なものはない」 辞任を改めて否定”. 産経新聞. (2011年12月6日). オリジナルの2011年12月7日時点におけるアーカイブ。
- ^ “【防衛局長不適切発言】前局長に停職40日の処分”. 産経新聞. (2011年12月9日). オリジナルの2011年12月9日時点におけるアーカイブ。 2011年12月10日閲覧。
- ^ “野田首相:一川・山岡氏の続投明言…年明け国会、五里霧中”. 毎日新聞. (2011年12月9日)
- ^ “一川防衛相が長渕剛さんに感謝状 省内からは「問責なのに浮かれすぎ!」”. 産経新聞. (2011年12月20日). オリジナルの2011年12月20日時点におけるアーカイブ。 2012年1月13日閲覧。
- ^ “一川前防衛相「官僚主導にはじき出された」 民主党議員会合で〝軽口〟”. 産経新聞. (2012年1月16日). オリジナルの2012年1月16日時点におけるアーカイブ。 2012年1月16日閲覧。
- ^ “民主党参院幹事長に一川前防衛相”. 産経新聞. (2012年1月24日). オリジナルの2012年1月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ “民主、幹事長代理に一川参院幹事長起用”. TBSテレビ. (2012年4月23日)
- ^ 『県選挙区で一川保夫氏の「支持」を決定』(プレスリリース)社民党石川県連合、2013年5月22日 。
- ^ “【参院選速報】一川氏陣営、敗北に声なし”. 産経新聞. (2013年7月21日). オリジナルの2013年7月21日時点におけるアーカイブ。 2013年7月21日閲覧。
- ^ 石川県連について
- ^ 『アンケート回答 一川 保夫 議員』(プレスリリース)構想日本、2001年10月。 オリジナルの2012年7月12日時点におけるアーカイブ 。
- ^ “国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会”. 2009年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月7日閲覧。
- ^ “「96条改正派は限定的」 民主参院幹事長、反対の姿勢”. 朝日新聞. (2013年4月30日). オリジナルの2013年5月1日時点におけるアーカイブ。
- ^ “民主県連代表が激高 嫌なら「支援しなくて結構」”. 読売新聞. (2010年4月25日)
- ^ “一川防衛相「素人だから文民統制」”. 朝日新聞. (2011年9月3日). オリジナルの2012年7月23日時点におけるアーカイブ。 2011年9月3日閲覧。
- ^ “【野田新内閣】石破氏「一川防衛相任命、首相は自衛官の息子らしくない」”. 産経新聞. (2011年9月3日). オリジナルの2011年9月3日時点におけるアーカイブ。 2011年9月4日閲覧。
- ^ “防衛相“文民統制発言”で説明”. NHK. (2011年9月3日) 2011年9月4日閲覧。
- ^ “野田新内閣発足 一川防衛相が会見”. 日本テレビ. (2011年9月3日)
- ^ “防衛相「安保は素人、これが本当の文民統制」”. 読売新聞. (2011年9月2日) 2011年9月4日閲覧。
- ^ “辺野古の環境評価、年内提出 防衛相、沖縄知事に伝える”. 朝日新聞. (2011年10月17日). オリジナルの2011年11月26日時点におけるアーカイブ。 2011年12月3日閲覧。
- ^ “「自衛隊と米軍違う」防衛相発言を批判”. 沖縄タイムス. (2011年10月18日) 2011年12月3日閲覧。
- ^ “防衛相の晩餐会欠席 共産志位委員長「大きな問題行動」”. 産経新聞. (2011年11月17日). オリジナルの2013年1月3日時点におけるアーカイブ。 2012年2月4日閲覧。
- ^ “防衛相の晩餐会欠席 「資質も姿勢も欠けている」と公明・山口氏”. 産経新聞. (2011年11月17日). オリジナルの2011年11月19日時点におけるアーカイブ。 2012年2月4日閲覧。
- ^ “ブータン国王の名前答えられず… 晩餐会欠席の一川防衛相”. 産経新聞. (2011年11月22日). オリジナルの2011年11月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「沖縄少女暴行事件の詳細知らない」 一川防衛相が答弁”. 朝日新聞. (2011年12月1日). オリジナルの2011年12月2日時点におけるアーカイブ。 2011年12月1日閲覧。
- ^ 『一川防衛大臣の沖縄訪問について』(プレスリリース)防衛省、2011年12月2日 。2011年12月2日閲覧。
- ^ “一川防衛相、仲井真沖縄知事会談要旨”. 産経新聞. (2011年12月3日). オリジナルの2011年12月3日時点におけるアーカイブ。 2011年12月5日閲覧。
- ^ “<中川防災相>「交付国債取り下げ」に言及 自公強く反発”. 毎日新聞. (2012年2月28日)
- ^ "元閣僚も幹部の地元でも… 民主大惨敗で当選過去最小". 情報プレゼンター とくダネ!. 22 July 2013. フジテレビ。
- ^ “【参院選】一川保夫元防衛相、ぶぜん「自民だけでいいのか」”. 産経新聞. (2013年7月21日). オリジナルの2013年7月21日時点におけるアーカイブ。 2013年7月27日閲覧。
- ^ “新人7氏当選、若返り――小松市議選”. 北國新聞. (2011年4月25日). オリジナルの2012年8月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ 一川保夫「真宗大谷派関係国会議員の会」『一川 保夫のブログ』2008年5月21日。2014年11月28日閲覧。
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