ポンペイ島 歴史

ポンペイ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 14:00 UTC 版)

歴史

ポンペイ国際空港

他の東カロリン諸島の島々と同様に、ポンペイ島の最も古い住人は、紀元前1000年頃にメラネシアから航海して移住した人々と考えられている。島の南東部マタラニウムにあるナンマトル遺跡周辺では紀元前後の頃の居住跡が見出されている。

その後、紀元500年頃からナンマトルが建造され始め、1200年頃から1600年頃まで同地で シャウテレウル王朝英語版が栄えた。その後はネッチ、ウー、マタラニウム、キチ、ソケースの五つの王国 (wehi) に分かれて、それぞれがナンマルキと呼ばれる首長系統、およびナニケンと呼ばれる副首長系統によって治められてきた。ナンマルキ等の位階の制度は現在も続いており、各首長はそれぞれの地区で今日も権勢を有している。

1528年1529年の二度にわたり、スペインのサーベドラがフロリダ号を率いて太平洋を横断する際に、この海域の北緯6度ないし7度で島を目撃しており、これがポンペイ島またはその周囲の島に関するヨーロッパ人の最初の記録と考えられる。確実な記録は1595年のサン・ヘロニモ号によるスペインのキロスの来訪であり、彼は上陸しなかったもののポンペイ島に多数の住民の居住していることや、西隣のアンツ環礁についても記録している。

1565年のスペインの太平洋領有宣言、1668年の同国のグアム島占有施策開始の後も、スペインの実効的支配はポンペイをはじめ他の東カロリン諸島には及ばなかった。島はそれ以後もヨーロッパの航海者に何度か記録されるが、最初の上陸の記録は不明である。

19世紀初めからは、島は捕鯨船や商船の補給地として用いられ、数多くのヨーロッパ、アメリカの船が訪れ始めた。1830年代前半には年間5隻程度の来訪だったのが、1855年には年間100隻を超えている。これらの来航は島民との間に摩擦を生じることもあった。特に1836年のファルコン号事件ではマタラニウムの首長をはじめ、多数の住民の死者を出した。

更に船員達からもたらされた病気も深刻な影響を与えた。天然痘1840年代初頭から流行が始まり、1854年の流行では半年間に2,000〜3,000名の死者を出した。1820年代には10,000人を超えていた島の人口は、1850年代後半には約2,000人まで減少している。この後もインフルエンザはしか等の流行が散発した。

他国の影響力増大を危惧したスペインは、1870年代にポンペイをはじめとするカロリン諸島の支配を強化し、交易権の確保を図った。ドイツはこれに反発して、1885年に戦艦を送りポンペイの領有を宣言した。これに対しては、教皇レオ13世の仲裁でスペインとの和解が成立し、ドイツは見返りとしてこの海域での交易権と漁業権を得ている。

1886年にスペインは、現在のコロニアの地をサンティアゴ・デ・ラ・アセンシオン (Santiago de la Ascension) と名付け、政庁を置いて正式領有を宣言した。ここにポンペイの100年に及ぶ外国支配が始まる。 スペインは性急な植民地政策の確立を図ったが、上述の伝染病流行等の不安定な社会状況や、伝統的な首長制度との確執により、大きな成果は得られなかった。

1898年米西戦争の敗戦により、スペインはこの地域の権勢を失い、これを受けて1899年にドイツがグアムを除くマリアナ諸島マーシャル諸島とともにカロリン諸島の権益を2,500万ペセタで買収した。「ポナペ」の名前はドイツ占領時代に付けられたものである。ポンペイにおけるドイツの植民地政策は、当初はコプラ産業の振興等、経済発展を視野に入れた懐柔政策だったものの、次第に伝統への介入・否定や、インフラ整備のための強制労働の法制化等、締め付けの厳しいものになり、住民の不満が高まっていった。その中、1910年10月にはソケースの有力者が労働拒否により笞刑に処されたのをきっかけとして、住民が蜂起するソケースの反乱(en:Sokehs Rebellion)が起こった。知事らを殺害されたドイツ側はドイツ東洋艦隊より防護巡洋艦エムデン」を出動する大掛かりな鎮圧により、翌1911年2月に反乱は沈静化した。首謀者15人が処刑の上、ソケースの土地は植民地府に接収された。420名余りの住民はヤップに強制移住させられ、その一部は更にパラオの強制労働に就かされた。

1914年10月、第一次世界大戦の際に、日本は4隻の艦船をポンペイに入港、無血で占領した。大戦終決後の1920年には国際連盟によって、日本の委任統治(C式委任統治)が認められた。日本の占領政策はこれまでの支配と異なり、同化政策をとったが島民に日本国籍は与えられなかった(婚姻は別)。

委任統治下で近代的な電気水道学校病院などのインフラストラクチャーの充実が進み、同時に当地での農業、漁業を中心とする殖産興業が推進された。特に1922年南洋庁支庁の設置により、日本からの移民も多数ポンペイに入植し、1945年の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していた。これはパラオ、サイパンに次ぐ三番目の規模である。

日本海軍は1940年に守備隊を初めてポンペイに駐屯させたのに続き、太平洋戦争開戦後の1942年には本格的な警備隊を配備した。それ以後も陸軍、海軍が兵力を補填して、西のトラック島(チューク島)にあった海軍の一大拠点の防備を担った。これに対しアメリカ軍1944年2月15日の大規模な空襲に始まり、5月にかけてポンペイに攻撃を加え、コロニア市街は大きな被害を受けた。トラック基地が空襲で機能を失い、主戦場がマリアナ、フィリピンに移った同年6月以降、ポンペイは輸送の途絶した状況になったが、鮮魚や芋等の食料自給が可能であったことと、それ以後大きな攻撃を受けなかったことから、終戦までの1年余り比較的平穏な状況が続いた。

1945年の太平洋戦争終了により、アメリカの占領が始まり、1947年国連信託統治領としてアメリカの統治が始まった。ポンペイはパラオ、ヤップ、トラック(チューク)とともに四つに区分けされた地区の中心として、当初から政庁が置かれた。アメリカの統治方針は「zoo theory(動物園理論)」と揶揄されるように、経済的な援助はするものの、産業育成による自立支援は行わなかった。

1965年、アメリカは国連の要請を受けて、ミクロネシア議会の発足を認めた。当初、議会はマリアナ、マーシャル、パラオを含めた形でサイパンにおいて開催され、ポンペイに移ってくるのは1977年のことである。1978年には現在の4州で連邦を構成、1979年には憲法が制定され自治政府が誕生した。1986年11月に独立してからは、ポンペイは連邦の首都機能を有している。


  1. ^ a b c New Pohnpeian-English Online Dictionary (英語) - オンラインのポンペイ語辞書。2022年9月6日閲覧。






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