プトレマイオス朝 歴史

プトレマイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 23:45 UTC 版)

歴史

アレクサンドロス3世とディアドコイ

アレクサンドロスはリビュアなるアモン(アメン)に詣でたいという強い願望にとりつかれた。ひとつにはこの神に託宣を受けるためだった。アモンの神託は決して過つことがなく、ペルセウスポリュデクテスの命令でゴルゴ退治に遣わされたさいに、またヘラクレスもリビュアにアンタイオスを訪ね、ブシリスをエジプトに訪れた折りに、いずれもここで託宣をうかがったと伝えられていたからだ。それにアレクサンドロスにはペルセウスやヘラクレスと張りあう気持があった。彼はこのふたりの英雄の末裔であったし、また伝説がヘラクレスやペルセウスの出生をゼウスに結びつけているように、彼自身は自分の生まれをアモンに結びつけていたからでもある。
-アッリアノス『アレクサンドロス大王
東征記』第3巻§3[1]

マケドニア王国の王、アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していたハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し[2]、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した[3][4]。彼はファロス島の対岸、ナイルデルタ西端の地点が良港であると見て、建築家デイノクラティスに都市計画を命じたという[5][6]。こうしてアレクサンドリア市の建設が始まった[5][6]。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オアシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる[6]

アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい[7]、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は前331年10月のガウガメラの戦いで勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された[8]。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前323年にバビロン市で病没した[9]。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった[10]。他、メレアゲルレオンナトスアンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた[11][10]

プトレマイオスはマケドニアの貴族ラゴス英語版アルシノエ英語版の間の子である[12]。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王フィリッポス2世であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ[12]。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた[12]。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人(ヘタイロイ)として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった[12]

エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われたバビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した[13][10]。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したのに対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し[14][10]、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した[13]。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した[15][16]。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという[17]。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した[18]。ペルディッカスは前321年[注 1]にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された[19][14]

王朝の建設

ラゴスの子プトレマイオス(1世)像。

ペルディッカスの死後、シリアのトリパラディソスで会議がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた[19]。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した[19]。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承したポリュペルコンに反対して各ディアドコイたちが同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった[20]。以降、アンティゴノス、カルディアのエウメネス、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子カッサンドロスと言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる[21][22]

以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である[23]。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロスバビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し[24]、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った[25]。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸のリュキアカリアキュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた[26]。しかし、前306年にはサラミスの海戦でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝[27]

キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた[28]。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した[28]。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sōtēr、救世主)と渾名されることになる[28]。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した[29]

前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世はアラドスダマスカス以南のシリア、およびリュキア、キリキアピシディアの一部を支配下に置いた[30]。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世(セレウコス朝)がシリアからインダス川に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった[31]。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った[31]。やがて、彼の息子のアンティゴノス2世(アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国にアンティゴノス朝を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共にヘレニズム王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。

王朝の完成

紀元前300年頃のプトレマイオス朝の領土(青)

プトレマイオス1世は前283年に死去し[32]、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した[33]。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し[33]、彼と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる[33][34][35]

プトレマイオス2世は父王の死後セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノス[注 2]に暗殺された後、セレウコス朝の支配者となったアンティオコス1世は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、キュレネの統治者マガス英語版に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた[33]。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた[36][注 3]。さらに前274年から前271年にかけて、第一次シリア戦争が戦われた[36]。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった[36]。続いて10年後にはセレウコス朝の新王アンティオコス2世との間で第二次シリア戦争が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた[36]。以降数世紀にわたって繰り返しシリア戦争が両王朝の間で戦われることになる。

また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした[37][36]。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した[38][39][注 4]。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる[40][注 5]。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった[38][39][43]

ファロス島の大灯台の想像図。

こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている[41]。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、またムセイオンアレクサンドリア図書館として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した[41][注 6]。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる[45]。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった[46][47]

また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、Theos Sōtēr)としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた[48]。さらに妻とした実姉アルシノエ2世も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、Thea Philadelphus)として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、Theoi Adelphoi)として神の座に加えた[48][49]。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された[49]。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる[50][49]

プトレマイオス3世の征服活動

大王プトレマイオスは父方にはゼウスの子ヘラクレスの子孫より、母方にはゼウスの子ディオニュソスの子孫より生まれし、テオイ・ソテレス(救済神)たるプトレマイオス(一世)と王妃ベレニケ(一世)の子、テオイ・アデルフォイ(愛姉神)たる王プトレマイオス(二世)と王妃アルシノエ(二世)の子にして、父より(中略)王国を受け継ぎ、(中略)アジアへ遠征した。彼はエウフラテス河のこちら側(西岸)の地域、パンピュリアイオニアヘレスポントストラキアにわたる全地域と、これらの地域の全軍とインド象の支配者となり、これらの全地域における領主を従属させ、エウフラテス河を渡り、彼自身、バビロニア、スシアナ、ペルシスメディア、そしてバクトリアにいたるあらゆる地域において、ペルシア人によってエジプトから持ち去られた、いかなる聖物を彼自身が探し出し、この地域から得られた他の財宝とともに、エジプトへと回復し、(ユーフラテス)河に沿って兵を帰還させた(以下、欠損)
-プトレマイオス朝の第三次シリア戦争戦勝記念碑文[51]

前246年、父の跡を継いで王位についたプトレマイオス3世(エウエルゲテス、在位:前246年-前222年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘のベレニケ2世をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟デメトリオス英語版(美男王)を希望した[49]。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ[49]。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた[49]。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した(第三次シリア戦争)。アッピアノスの記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹ベレニケが、別の妻ラオディケに息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという[52][53]。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した[54]

この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、メソポタミアを突き抜けてバビロニアまで進軍した[53]。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の楔形文字史料である『バビロニア年代誌』の記録によって明らかとなっている[55][注 7]。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である[56]。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加えバクトリアペルシアメディアなど、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが[53][57]、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の終結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している[53]。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部(コイレ・シリア)、そしてさらにセレウコス朝の首都アンティオキアの外港セレウキア・ピエリア英語版までもがプトレマイオス朝の支配下に残った[53][58]

プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが[59]、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイやアカイア同盟などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港ペイライエウスに駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた[59]。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた[59]

後期

エジプトではプトレマイオス(引用注:4世)が全く異なった状態にあった。即ち、近親殺しで王国を手に入れ、両親を殺したのに加えて、さらに兄弟をも殺害して、彼は、あたかも事がうまく運んだかのように思って贅沢に身を任せ、また、王宮全体も王のやり方に従ったのである。その結果、幕僚や長官たちだけでなく、全軍隊も軍事に精励するのをやめて、安逸と無為でだれ切り、腐り果てた。
-ポンペイウス・トログス、ユスティヌス抄録『地中海世界史』第30巻§1[60]

伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため徐々に衰退へ向かっていったとされている[61][59][62][注 8]プトレマイオス4世(在位:前222/221年-前204年[注 9])は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「フィロパトル(Philopator、父を愛する者)という異名が与えられている[69]。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。父親の他、即位してから1年のうちに、母ベレニケ2世と弟マグス、叔父リュシマコスを殺害し、アレクサンドリアのギリシア人ソシビオスに唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという[70][71][67][注 10]

プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位したアンティオコス3世(大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は、前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、第四次シリア戦争が勃発した[70]。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した[72]。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦であるラフィアの戦いでセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講和を結んだ[72][73][74]

プトレマイオス(四世)のところでは、この(ラピアの戦いの)すぐあと、エジプト人との戦争が勃発した。この王はアンティオコス(引用注:3世)との戦争に備えてエジプト人に武器を与えていたのだが、これはその場面に限っていえば首肯できる方法ではあっても、将来のためにはつまづきの石となった。というのもラピアの勝利によって自信をふくらませたエジプト人たちは、もはやおとなしく命令に忍従するのをいさぎよしとせず、自分の力で身を守ることのできる人間として、それにふさわしい指導役の人物を求めるようになったのである。この要求はしばらくのちに実現することになる[注 11]
-ポリュビオス『歴史』第5巻§107[75]

しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった[76]。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている[63][72][77]。このような見解は現在では批判が行われているが[63]、原因は別としても前207/205年頃にはテーベを中心とする上エジプトが将軍ハロンノフリス(ヒュルゴナフォル)とカロンノフリス親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)[78][76][74][注 12]

この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳のプトレマイオス5世(在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスとアガトクレスが握った[80]。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された[80][73]。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世と前202年にコイレ・シリアに侵入して第五次シリア戦争が勃発した[81]。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝のフィリッポス5世もセレウコス朝に同調し、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であったキュクラデス諸島ミレトスに攻撃をかけて、他のギリシア人ポリスもろとも、これを占領した[81]

ローマの拡張

拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、ロドスビュザンティオンキオス、そしてペルガモン王国アッタロス1世らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、第二次ポエニ戦争に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた[82]。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年のキュノスケファライの戦いでアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した[83][84]。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年のテルモピュライの戦い英語版と前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した[85]

ロゼッタ・ストーン。大英博物館収蔵

こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した[86]。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下は明らかであった[86]。国内では政権を握ったアカルナニア人アリストメネスが前196年にメンフィスでプトレマイオス5世の宣布式[注 13]を執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された[86][73]。この宣言文が刻まれた石碑が1799年に発見されており、現在はロゼッタ・ストーンの名で知られている[73]。これはエジプト語の解読に決定的な役割を果たすことになる[88][89]。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世との婚姻も結ばれた[88][89]。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した[90][77]

前180年、プトレマイオス5世が死去するとプトレマイオス6世(在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した[91][89]。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、成長したプトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した(第六次シリア戦争)[89]。しかしペルシウム近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王アンティオコス4世に捕らえられた[92][91][89]。この結果エジプトでは新たに弟のプトレマイオス8世(在位:前170年-前163年)が擁立された[89]

アンティオコス4世はプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論んだため、庇護下に置いたプトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割した[89]。しかし自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結びローマの支援の下でセレウコス朝の軛からの脱却を図った[89][92]。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した[89][92]。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元コンスルのガイウス・ポピリウス・ラエナスらを特使として派遣した[92][89]。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した[92][89]。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった[92][89]

プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが[93]、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった[94]。プトレマイオス8世はエジプト王位を主張し、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた[94]。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた[94]。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いてキュプロス島の領有権をも主張した[94]。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった[94]。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた[94]。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた[95]。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した[95]

前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘のクレオパトラ・テアが宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した[95][96]。寡婦となったプトレマイオス6世の妻クレオパトラ2世は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した[95][96]。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した[95][96]。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった[97][96][注 14]。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された[97][96]。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世とも結婚し王妃とすると、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した[97][98][99]

即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた[100][98]。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた[100][98]。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子プトレマイオス・メンフィティスを殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという[100]。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(Amixia)」という表現で記憶された[100]。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王デメトリオス2世を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した[101]。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった[101]。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた[102]

慢性的な内紛とローマへの従属

プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子のプトレマイオス9世(在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟のプトレマイオス10世(在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した[103]。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている[103]。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている[103][104]。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した[103][104]

この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子プトレマイオス・アピオンがキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた[104]。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった[104]。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、当初はローマは直接統治には乗り出さなかった[105]。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者スッラの配下ルクッルスに秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった[105]。そして前74年、ローマ元老院はキュレナイカ属州の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた[105]

前44年のローマ。

前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘のベレニケ3世に譲り、その夫に甥のプトレマイオス11世(在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した[103]。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された[103]。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子でポントス王国に送られていたプトレマイオス12世(在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟プトレマイオス英語版がキュプロス王に即位した[106][107]。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した[106][107]。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた[106][107]

この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年にはポントス王国第三次ミトリダテス戦争)、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った[108]。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる[109]

王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘ベレニケ4世(在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもあるセレウコス・キュビオクサテスと結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王ミトリダテス6世の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした[106][110]。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮するガリア人ゲルマニア人の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した[107][106][注 15]。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった[107]

滅亡

前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子プトレマイオス13世はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘のクレオパトラ7世(在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた[111]。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている[111]。単にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。

19世紀の想像画に描かれた、絨毯にくるまれてカエサルの前へ訪れたクレオパトラ。ジャン=レオン・ジェローム作、1886年

間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた[112][113]。おりしも、ローマで第一回三頭政治を担っていたうちの一人、マルクス・リキニウス・クラッススパルティア(アルシャク朝)との戦争で落命し、残されたユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが対立していた[114]。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された[113]。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した[113]。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と再婚した[113]。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失したと言われる[113]

カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子のカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された[115][116]。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した[115]。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた[117][118]

前42年にフィリッピの戦いでブルトゥスらを破ったオクタウィアヌスマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥス第二回三頭政治を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世をキリキアタルススに招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる[119][118]。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人をディオニュソスオシリスアフロディテイシスに例えた[120]。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世をアンティオキアに呼び寄せた[120]。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネを伴ってアントニウスの下へ向かった[120]

アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた[121][122]。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった[121]。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目はプトレマイオス・フィラデルフォス)がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという[123]。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、これによりオクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった[121][122]。アントニウスが元老院民会の承認を経ずに行った領土贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ[124][122]

前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した[122]。同年9月2日に戦われたアクティウムの海戦でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された[124][122]。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した[125][126]。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した[125][126][127]。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネはマウレタニア王ユバ2世に嫁いだ[128][129]

以降、エジプトはローマの皇帝属州アエギュプトゥスとしてアウグストゥス(オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民のパンとサーカスを保証していくことになる[130]


注釈

  1. ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[14]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。
  2. ^ プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。
  3. ^ 離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した[33]。エジプトとキュレネが砂漠で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった[33]
  4. ^ ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。
  5. ^ アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻ベレニケ1世の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である[41][42]
  6. ^ アレクサンドリア図書館の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。モスタファ・エル=アバディは現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる[44]。しかし、フランソワ・シャムー[41]本村凌二[45]など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。
  7. ^ プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である[55]
  8. ^ 波部雄一郎は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している[63]。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる[63]。従って本文では伝統的な見解に従った。
  9. ^ a b プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2014に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204[64]、前221-前204[65][66]、前221-前203[42]、前222-前206[67]、前222-前205[68]
  10. ^ 実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある[63]
  11. ^ このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は#グレコ・マケドニア人とエジプト人を参照。
  12. ^ この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年[76]、前206年[79]、前205年[74]
  13. ^ 王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式[87]
  14. ^ 山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない[96]
  15. ^ 松原『西洋古典学事典』[110]はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。
  16. ^ 例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある[145]
  17. ^ aroura/arourae、古代エジプトの面積単位。1アローラ当たり2,756m2
  18. ^ 七十人訳という名称は、72人の翻訳者によって72日間で完成したとする伝説による[233]

出典

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