プトレマイオス朝 社会と制度

プトレマイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 23:45 UTC 版)

社会と制度

プトレマイオス朝は伝統的に、整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた[131][132]。20世紀の代表的なヘレニズム時代研究者の1人であるウォールバンク英語版はプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実験と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、重商主義のそれでもあった。」と評しており[133]、19世紀から20世紀にかけてヘレニズム時代研究をリードしたターン英語版は、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている[134]。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない[131][132][135][136]

セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多様な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている[137]。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている[131][135]

グレコ・マケドニア人とエジプト人

ローマで作成されたクレオパトラ7世頭像(左、ベルリン旧博物館収蔵)とエジプトの伝統的な様式で描かれたクレオパトラ7世とカエサリオン(右、デンデラ神殿複合体

プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、エジプト語を話すことができたのは歴代の中でもクレオパトラ7世だけであったとも言われている[127][138]

このような王国を安定的に支配するためには、重装歩兵戦術や「宗教」・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった[139]。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる[139]。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる[139]。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている[139]。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた[140]

一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている[141]。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に対して十分な配慮をする必要があった。新王国時代以来、上エジプトで支配的地位を持っていたアメン大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし[142]、下エジプト最大の伝統信仰の拠点であったメンフィスプタハ神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた[143]。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており[131]、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている[141]。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家マネトもまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった[144]

ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず[注 16]、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた[131]

特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある[146][131][141]

地方統治

エジプトでは先王朝時代(前32世紀頃以前)または、古王国(前27世紀頃-前22世紀頃)の頃からノモス(セパト)と呼ばれる州が設置されていた[147]。このノモスは新王国(前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに上エジプト22州、下エジプト20州程度に整理され[147][148]、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(spȝt)ではなく、ギリシア語由来のノモス(古希: νόμος)の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による[147]

ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られたプトレマイスのみであり、ギリシア系入植者はエジプト人の集落に割当地(クレーロス古希: κλῆρος)を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした[149][142]

当時の集落形態についてはファイユーム地方を除き情報が乏しい[149]。しかしアルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは豊富な古代のパピルス文書が発見されている[140]。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われ、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている[140]。ファイユームの開発は中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった[140]。こうした農地は短冊状に整然と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている[150]。ファイユーム社会は当時のエジプト社会の標準的な姿ではなかったであろうが(経済節も参照)、詳細な農村生活を復元可能であり非常に重要である[140]

経済

オクシュリンコスで発見されたプトレマイオス朝時代のパピルス文書。宰相アポロニオスの執事ゼノンが残した、いわゆるゼノン文書の一部。

プトレマイオス朝は従来のエジプトには無かったいくつかの経済システムを導入、または発展させた。その一つが貨幣の発展である。エジプトに貨幣が導入されたのはハカーマニシュ朝時代前後(第29王朝)のことであるが[151][152]、プトレマイオス朝期に至って貨幣は完全に定着した[151][152]。プトレマイオス朝では金貨、銀貨、銅貨(青銅貨)が鋳造されたが、実際に流通したのは銀貨と銅貨のみであった[151]。プトレマイオス朝の貨幣は当時標準的であったテトラドラクマ貨(約17グラム)ではなく、キュレネで使用されていた、これよりも3グラムほど軽いフェニキアの標準に近い重量が使用された[153][151]。発見されたパピルス文書の記録から、プトレマイオス朝はエジプトにおける外国貨幣の流通を認めず、持ち込まれた貨幣は銀行(両替商)を通じてエジプト貨に両替することを義務付けていたとされる[151][154]

当時のエジプトで貨幣が流通していたのは実質的には都市部のみであり、全体としては未だ物々交換が取引の中心であった[155]。このため、徴税においては古くからの伝統の通り、コムギなど農産物による物納が行われていたが、広範囲において効率的な徴税を行うために「徴税権」の売却益を王朝の収入源とする手法がとられた[155]。これはギリシアで発案された手法を導入したもので、領土内の一定の地域での徴税で期待できる物品に相当する価格で、「徴税権」を商人や有力者に売却して貨幣を納入させる方法であった[155]。「徴税権」を買い取った商人や組織は、各地の実情に従って税を物納で(支払った貨幣よりも余分に)徴収し、「徴税権」の買収に使用した費用と利益を確保した[155]。こうして未だ貨幣が浸透していない地域からも貨幣による徴税が効率的に可能となった[155]。この手法は後のローマ帝国時代にも継承された[155]

また、既に述べた通り上エジプト下エジプトの結節点そばにあるファイユーム地方では、ギリシア系植民者のために大規模な開発が行われた[156]。モエリス湖(現:カルーン湖)を中心とした広大な沼沢地が広がっていたファイユーム地方は中王国時代に一時開発が行われていたが、より本格的な開発はプトレマイオス朝時代のものである[157]。この開発はファイユーム地方の景観に決定的な影響を及ぼし、干拓によってモエリス湖の水位が大幅に低下して湖底に農業用地が広げられていった[157]。ファイユーム地方からは日常生活や裁判、契約、決済、労働管理などに関わる多数のパピルス文書が発見されており、当時の生活と干拓事業の具体的な姿について、古代世界において他に類を見ない詳細な情報が得られている[157][158]。これらによれば、ファイユームの干拓・水利事業は王権による主導で実施され、それに必要な様々な作業や堤防の監視などは請負制で契約される労働者が担った[159]。作業に必要な各種の道具は公的機関から必要数が貸し出され、またこの時期に鉄製農具が普及したことが作業を進める上で大きく役立った[159]。ただし、労働者の給与は残存する史料による限り極めて低く、この労働参与は実質的には強制労働に近いものであったとする見解もある[159]

農産物も変化し、ファイユームでは古代エジプトにおいて長く普及していたオリュラ(エンマーコムギ)にかわってデュラムコムギの導入が進み急速に置き換わっていった[160]。ギリシア人たちの生活に不可欠であったワインの生産とそれに必要なブドウの栽培も拡大した[160]。各種の油については王室による独占管理が志向され、ゴマ油ひまし油や、亜麻の種、ベニバナといった油の採集に使用できる作物の生産と取引には事細かに規制がかけられた[161][160]。ギリシア人たちに珍重されていたオリーヴの栽培は上手くいかなかったらしく、導入が遅れた上にローマ時代にかけて生産量は漸減した[162]

こうした経済や法令に関わる詳細かつ豊富な史料から、かつては管理の行き届いた中央集権国家というプトレマイオス朝の姿が描かれていた。しかし、プトレマイオス朝時代の文書記録はその多くがファイユームという一地方から得られたものであり、しかもこの地が当時新しく開拓されギリシア人の集中的な移住先となっていた極めて特殊な地方であることから、ファイユームから得られる情報をエジプト全域における標準的なものとして援用することはできないという見解が現在では一般的である[137][131][132][136][163]。事実として、当時の行政機構が緻密に設計されたというよりは入植ギリシア人の利益を保証するために拡大してきたと見られることや、エジプト人の伝統的な拠点であるテーベ周辺やエドフから得られる史料からは、ギリシア人入植地が広がっていたファイユームとは異なり、王朝による統制がつとめて間接的なものに留まっていた可能性が示されており、新たなプトレマイオス朝社会の姿が模索されている[137][131][132][136][163]

学問

アレクサンドリア図書館を描いた19世紀の想像図。

ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった[164][165]。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアのムセイオンと付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった[165][166]。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った[167][168]。現代の物理学者スティーヴン・ワインバーグはその様を20世紀におけるヨーロッパからアメリカへの人の流れに例えている[167]

政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった[169][168][167]。エフェソスのゼノドトスやビュザンティオンのアリストファネス、サモトラケのアリスタルコスと言った学者らによって進められたホメロスの研究(ホメロス問題も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである[169][168]。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』を現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされるヘロドトスの『歴史』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった[170]

こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった[171]。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他にアテナイミレトスがあったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった[171]。この知的風土の下、光学流体静力学、そして特に天文学が特筆すべき発達を遂げた[171]。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な太陽の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行ったサモスのアリスタルコスや、日食を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めたヒッパルコス、地球の大きさを計算したエラトステネスなどがいる[172]

アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与えるクラウディオス・プトレマイオスを輩出することになる[173]。彼の研究は後世の天動説の理論的基盤を形成した[173]。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは地動説に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている[172]

光学(光の性質)の研究も当時盛んに行われた。この分野もまた、当時アレクサンドリアで活動した数学者エウクレイデス(ユークリッド)の研究にまで遡る[174]。彼は幾何学公理、諸定理の証明などを述べた数学書『原論』の著者として名高く、ムセイオンにおいて数学科を設立したとも言われる人物である[174]ユークリッド幾何学に名を残しているように、エウクレイデスの数学・幾何学分野における後世への影響は巨大であるが、透視図法について述べた『オプティカ英語版』などの著作もあり、光の反射の研究においても大きな足跡を残している[174]

ただし、このような重要性、知名度に反して、こうした学問の中心となるべきムセイオンの付属図書館の運営実態については多くのことが不明である[175]。図書館自体についての同時代史料はほとんど無く、現代に伝わる情報は数世紀後のローマ時代の著述家による信憑性の低い情報に由来しており、運営実態や建物の立地、規模などについても確実な情報は得られない[176]。この図書館に資料を集めるため、アレクサンドリアに入港した船舶から本が見つかった場合には没収して写本を作成し、持ち主には写本の方を返却したという逸話や、アテナイから保証金と引き換えに悲劇のテキストを取り寄せ、やはり写本を作成してそれを返却したという逸話は、アレクサンドリア図書館の蒐集活動を象徴する話として良く知られている[176]。しかしこれらの話も紀元後2世紀の医師ガレノスの記録に登場するものであり、真実であるという確証を得ることは不可能である[176]


注釈

  1. ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[14]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。
  2. ^ プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。
  3. ^ 離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した[33]。エジプトとキュレネが砂漠で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった[33]
  4. ^ ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。
  5. ^ アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻ベレニケ1世の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である[41][42]
  6. ^ アレクサンドリア図書館の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。モスタファ・エル=アバディは現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる[44]。しかし、フランソワ・シャムー[41]本村凌二[45]など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。
  7. ^ プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である[55]
  8. ^ 波部雄一郎は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している[63]。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる[63]。従って本文では伝統的な見解に従った。
  9. ^ a b プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2014に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204[64]、前221-前204[65][66]、前221-前203[42]、前222-前206[67]、前222-前205[68]
  10. ^ 実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある[63]
  11. ^ このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は#グレコ・マケドニア人とエジプト人を参照。
  12. ^ この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年[76]、前206年[79]、前205年[74]
  13. ^ 王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式[87]
  14. ^ 山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない[96]
  15. ^ 松原『西洋古典学事典』[110]はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。
  16. ^ 例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある[145]
  17. ^ aroura/arourae、古代エジプトの面積単位。1アローラ当たり2,756m2
  18. ^ 七十人訳という名称は、72人の翻訳者によって72日間で完成したとする伝説による[233]

出典

  1. ^ アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p.191
  2. ^ 森谷 2000, p. 7
  3. ^ 桜井 1997, p. 191
  4. ^ 森谷 2000, p. 6
  5. ^ a b エル=アバディ 1991, p. 20
  6. ^ a b c 山花 2010, p. 158
  7. ^ 森谷 2000, p. 150
  8. ^ 桜井 1997, p. 192
  9. ^ 桜井 1997, p. 193_194
  10. ^ a b c d シャムー 2011, pp. 59-60
  11. ^ ウォールバンク 1988, p. 62
  12. ^ a b c d 西洋古典学事典, pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より
  13. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 139
  14. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 66
  15. ^ シャムー 2011, p. 64
  16. ^ ウォールバンク 1988, p. 65
  17. ^ 山花 2010, p. 163
  18. ^ 山花 2010, p. 166
  19. ^ a b c シャムー 2011, p. 65
  20. ^ シャムー 2011, p. 67
  21. ^ ウォールバンク 1988, pp. 62-81
  22. ^ シャムー 2011, pp. 59-95
  23. ^ シャムー 2011, p. 71
  24. ^ シャムー 2011, p. 72
  25. ^ ウォールバンク 1988, p. 74
  26. ^ 波部 2014, p. 108
  27. ^ シャムー 2011, p. 76
  28. ^ a b c シャムー 2011, p. 77
  29. ^ ウォールバンク 1988, p. 76
  30. ^ ウォールバンク 1988, p. 79
  31. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 80
  32. ^ シャムー 2011, p. 100
  33. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 101
  34. ^ 拓殖 1982, p. 24
  35. ^ 波部 2014, p. 16
  36. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 102
  37. ^ 波部 2014, pp. 79-87
  38. ^ a b 波部 2014, p. 88
  39. ^ a b ターン 1987, p. 21
  40. ^ 波部 2014, p. 96
  41. ^ a b c d シャムー 2011, p. 104
  42. ^ a b 拓殖 1982, p. 25
  43. ^ シャムー 2011, p. 103
  44. ^ エル=アバディ 1991, p. 66
  45. ^ a b 桜井 1997, p. 203
  46. ^ エル=アバディ 1991, p. 24
  47. ^ 拓殖 1982, p. 29
  48. ^ a b c d e 拓殖 1982, p. 27
  49. ^ a b c d e f g シャムー 2011, p. 105
  50. ^ 拓殖 1982, p. 28
  51. ^ 波部 2014, pp. 192-193の引用より孫引き
  52. ^ アッピアノス『シリア戦争』No.13§65
  53. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 107
  54. ^ クレイトン 1999, p. 269
  55. ^ a b 『バビロニア年代誌』BHCP11
  56. ^ 『バビロニア年代誌』BHCP11、訳者サマリーより
  57. ^ 波部 2014, pp. 192-193
  58. ^ 波部 2014, p. 183
  59. ^ a b c d シャムー 2011, p. 108
  60. ^ ユスティヌス『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349
  61. ^ 波部 2014, p. 18
  62. ^ 山花 2010, p. 169
  63. ^ a b c d e 波部 2014, pp. 18-21
  64. ^ 波部 2014, p. 287
  65. ^ 西洋古典学事典,p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より
  66. ^ ユスティヌス『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4
  67. ^ a b 山花 2010, pp. 169-170
  68. ^ クレイトン 1999, p. 265
  69. ^ ユスティヌス、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5
  70. ^ a b シャムー 2011, p. 145
  71. ^ クレイトン 1999, p. 270
  72. ^ a b c シャムー 2011, p. 146
  73. ^ a b c d 山花 2010, p. 170
  74. ^ a b c 波部 2014, p. 238
  75. ^ ポリュビオス『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276
  76. ^ a b c シャムー 2011, p. 147
  77. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 167
  78. ^ 周藤 2014a, p. 6
  79. ^ 周藤 2014a, p. 1
  80. ^ a b 周藤 2014a, p. 9
  81. ^ a b シャムー 2011, p. 150
  82. ^ シャムー 2011, p. 151
  83. ^ シャムー 2011, p. 152
  84. ^ 本村 1997a, p. 203
  85. ^ シャムー 2011, pp. 158-159
  86. ^ a b c 周藤 2014a, p. 10
  87. ^ ポリュビオス、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7
  88. ^ a b 山花 2010, p. 171
  89. ^ a b c d e f g h i j k l クレイトン 1999, p. 271
  90. ^ 周藤 2014a, pp. 7,12
  91. ^ a b 山花 2010, p. 172
  92. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 170
  93. ^ クレイトン 1999, p. 272
  94. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 190
  95. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 191
  96. ^ a b c d e f 山花 2010, p. 173
  97. ^ a b c シャムー 2011, p. 192
  98. ^ a b c クレイトン 1999, p. 274
  99. ^ 拓殖 1982, p. 34
  100. ^ a b c d シャムー 2011, p. 193
  101. ^ a b シャムー 2011, p. 194
  102. ^ シャムー 2011, p. 196
  103. ^ a b c d e f クレイトン 1999, p. 275
  104. ^ a b c d シャムー 2011, p. 200
  105. ^ a b c シャムー 2011, p. 201
  106. ^ a b c d e クレイトン 1999, p. 276
  107. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 220
  108. ^ シャムー 2011, pp. 210-219
  109. ^ シャムー 2011, p. 219
  110. ^ a b 西洋古典学事典, pp. 1146-1147 「ベレニーケー」の項目より
  111. ^ a b シャムー 2011, p. 221
  112. ^ クレイトン 1999, p. 277
  113. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 223
  114. ^ シャムー 2011, p. 222
  115. ^ a b シャムー 2011, p. 224
  116. ^ 本村 1997b, p. 310
  117. ^ シャムー 2011, p. 225
  118. ^ a b 山花 2010, p. 183
  119. ^ シャムー 2011, p. 226
  120. ^ a b c シャムー 2011, p. 227
  121. ^ a b c シャムー 2011, p. 228
  122. ^ a b c d e 本村 1997b, p. 316
  123. ^ シャムー 2011, p. 229
  124. ^ a b シャムー 2011, p. 230
  125. ^ a b シャムー 2011, p. 232
  126. ^ a b 本村 1997b, p. 317
  127. ^ a b クレイトン 1999, p. 278
  128. ^ シャムー 2011, p. 233
  129. ^ 山花 2010, p. 185
  130. ^ クレイトン 1999, p. 279
  131. ^ a b c d e f g h 森谷 1997, p. 1997
  132. ^ a b c d 周藤 2014b, p. 19
  133. ^ ウォールバンク 1988, p. 145
  134. ^ ターン 1987, pp. 161-186
  135. ^ a b 波部 2014, p. 43
  136. ^ a b c 高橋 2004, pp. 148-149
  137. ^ a b c 波部 2014, p. 44
  138. ^ ウィルキンソン 2015, p. 425
  139. ^ a b c d 波部 2014, p. 52
  140. ^ a b c d e 周藤 2014b, pp. 136-145
  141. ^ a b c 高橋 2004, p. 156
  142. ^ a b マニング 2012, p. 151
  143. ^ 櫻井 2012, p. 23
  144. ^ ウィルキンソン 2015, p. 421
  145. ^ 櫻井 2012, p. 28
  146. ^ 周藤 2014b, pp. 312-317
  147. ^ a b c 古谷野 2003, p. 260
  148. ^ 周藤 2014b, p. 131
  149. ^ a b 周藤 2014b, p. 134
  150. ^ 周藤 2014b, pp. 135, 136-145
  151. ^ a b c d e 山花 2010, p. 201
  152. ^ a b エジプト百科事典, p. 178-179,「交易」の項目より
  153. ^ ウォールバンク 1988, p. 146
  154. ^ ウォールバンク 1988, p. 147
  155. ^ a b c d e f 山花 2010, p. 202
  156. ^ 周藤 2014b, p. 136
  157. ^ a b c 周藤 2014b, p. 137
  158. ^ 高橋 2017, p. 32
  159. ^ a b c 周藤 2014b, p. 138
  160. ^ a b c 周藤 2014b, p. 140
  161. ^ ウォールバンク 1988, p. 155
  162. ^ 周藤 2014b, p. 141
  163. ^ a b 石田 2007, pp. 83-84
  164. ^ シャムー 2011, pp. 495-496
  165. ^ a b ワインバーグ 2016, p. 56
  166. ^ シャムー 2011, pp. 507-509
  167. ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 57
  168. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 250
  169. ^ a b 周藤 2014b, p. 17
  170. ^ ベリー 1966, p. 39
  171. ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 58
  172. ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 94-111
  173. ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 124-129
  174. ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 61
  175. ^ 周藤 2014b, p. 94
  176. ^ a b c 周藤 2014b, pp. 95-100
  177. ^ a b c d e f フィッシャー・ボヴェ 2015
  178. ^ フィッシャー・ボヴェ.“Egyptian Warriors: The Machimoi of Herodotus and the Ptolemaic Army,” Classical Quarterly 63 (2013): 209–236, 222–223.
  179. ^ Sean Lesquier, Les institutions militaires de l’Egypte sous les Lagides (Paris: Ernest Leroux, 1911);
  180. ^ Roger S. Bagnall, “The Origins of Ptolemaic Cleruchs,” Bulletin of the American Society of Papyrology 21 (1984): 7–20, 16–18.
  181. ^ Heinz Heinen, Heer und Gesellschaft im Ptolemäerreich, in Vom hellenistischen Osten zum römischen Westen: Ausgewählte Schriften zur Alten Geschichte. Steiner, Stuttgart 2006, ISBN 3-515-08740-0, pp. 61–84.
  182. ^ フィッシャー・ボヴェ 2013
  183. ^ Michel M. Austin, The Hellenistic World from Alexander to the Roman Conquest: A Selection of Ancient Sources in Translation (Cambridge: Cambridge University Press, 2006) #283, l. 20.
  184. ^ Nick Sekunda, “Military Forces. A. Land Forces,” in The Cambridge History of Greek and Roman Warfare (Cambridge: Cambridge University Press, 2007)
  185. ^ The Ptolemies, the Sea and the Nile: Studies in Waterborne Power, edited by Kostas Buraselis, Mary Stefanou, Dorothy J. Thompson, Cambridge University Press, pp. 12–13.
  186. ^ Robinson, Carlos. Francis. (2019). "Queen Arsinoë II, the Maritime Aphrodite and Early Ptolemaic Ruler Cult". Chapter: Naval Power, the Ptolemies and the Maritime Aphrodite. pp.79–94. A thesis submitted for the degree of Master of Philosophy. University of Queensland, Australia.
  187. ^ a b Robinson. pp.79-94.
  188. ^ Muhs, Brian. (2019). "The Ancient Egyptian economy, 3000–30 BCE". Chapter 7: The Ptolemaic Period. Cambridge University Press
  189. ^ a b c Muhs.
  190. ^ a b 周藤 2014b, p. 105
  191. ^ a b c シャムー 2011, pp. 455-459
  192. ^ a b c d 周藤 2014b, p. 106
  193. ^ a b 周藤 2014b, pp. 114-115
  194. ^ シャムー 2011, p. 475
  195. ^ a b 周藤 2014b, pp. 116-117
  196. ^ a b 周藤 2014b, p. 119
  197. ^ a b 周藤 2014b, pp. 119-120
  198. ^ シャムー 2011, p. 476
  199. ^ クラウク 2019, p. 43 の引用より孫引き
  200. ^ クラウク 2019, p. 39
  201. ^ クラウク 2019, p. 41
  202. ^ クラウク 2019, pp. 40-41
  203. ^ クラウク 2019, p. 32
  204. ^ クラウク 2019, p. 43
  205. ^ クラウク 2019, p. 45-46
  206. ^ a b 周藤 2014b, p. 111
  207. ^ a b 周藤 2014b, p. 112
  208. ^ 周藤 2014b, p. 113
  209. ^ 波部 2014, p. 187
  210. ^ a b 波部 2014, p. 188
  211. ^ a b 波部 2014, p. 190
  212. ^ 波部 2014, p. 200
  213. ^ 波部 2014, pp. 190, 200
  214. ^ 波部 2014, p. 133
  215. ^ 波部 2014, pp. 124-126
  216. ^ a b クラウク 2019, p. 63
  217. ^ 長谷川 2014, pp. 67-68
  218. ^ 櫻井 2016
  219. ^ 周藤 2014a
  220. ^ a b 周藤 2014b, pp. 312-330
  221. ^ 石田 2004
  222. ^ a b ウィルキンソン 2002, p. 27
  223. ^ a b c スペンサー 2009, p. 66
  224. ^ 小川 1982, p. 132
  225. ^ a b 小川 1982
  226. ^ シャムー 2011, p. 477
  227. ^ クラウク 2019, p. 64
  228. ^ a b シュテルン、サフライ 1977, p. 17
  229. ^ シュテルン、サフライ 1977, p. 33
  230. ^ 秦 2018, pp. 11-16
  231. ^ 秦 2018, pp. 17-18
  232. ^ 秦 2018, p. 35
  233. ^ コトバンク、「七十人訳聖書」の項目より
  234. ^ 秦 2018, p. 52
  235. ^ 秦 2018, pp. 44-132
  236. ^ 秦 2018, p. 202






プトレマイオス朝と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プトレマイオス朝」の関連用語

プトレマイオス朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プトレマイオス朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのプトレマイオス朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS