プトレマイオス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 23:45 UTC 版)
軍事
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F6%2F60%2FNileMosaicOfPalestrinaSoldiers.jpg%2F250px-NileMosaicOfPalestrinaSoldiers.jpg)
プトレマイオス朝の軍隊は、エジプトの膨大な資源と対外環境に適応する能力の恵みを受け、ヘレニズム時代に地中海世界の最も強力な軍隊の一つとして評価されている。プトレマイオス朝の軍隊は最初は主にディアドコイ戦争以来、セレウコス朝に対抗して防御的な目的を遂行した。プトレマイオス3世の治世までエジプト軍の活動はアナトリア、南部トラキア、エーゲ海の諸島、クレタ島に及び、キレナイカ、コイレ・シリア、キプロス島に対するプトレマイオス朝の支配的な影響力を拡張させるのに役立った。軍隊はエジプトを保護する機能を維持しながら領土を確保し、首都アレクサンドリア、ナイル川デルタのペルシウム、上エジプトのエレファンティネに主な駐屯地があった。また、プトレマイオス朝はエジプトでの統制を確保するために軍隊に大きく依存した。兵士たちは王室近衛隊の多くの部隊に服務しており、反乱と簒奪に備えて動員され、二つとも次第に普遍化していった。「マキモイ(Machimoi)」と呼ばれたエジプト人の下級兵士は、官吏の警護や徴税を助けるために召集された[177][178]。
陸軍
プトレマイオス朝は、その治世を通じて職業軍人(傭兵も含む)と新兵で構成された常備軍を維持した。エジプトの支配権を固めるため、プトレマイオス1世はギリシア人、傭兵、エジプト人、さらには戦争捕虜まで募集した軍隊に依存し、彼らはかなりの知略と適応力を示した[177]。プトレマイオス朝の軍隊は多様性に特徴があり、その構成員の民族的起源や国籍に関する記録が残されている[179]。エジプト本国他にもマケドニア、トラキア、ギリシア本土、エーゲ海、小アシア、キレナイカなどから兵士が募集された[180]。前2世紀から1世紀にかけて重なる戦争と拡張、ギリシア系移住民の減少と共にエジプト人が軍隊で占める割合と依存度が高まったが、ギリシア系移住民は依然として王室近衛隊と高位将校団において特権的な地位を維持した。エジプト人は王朝初期から軍隊に存在していたが、不誠実という評判と地域の反乱に同調する傾向のためしばしば無視されたり、不信を受けた[181]。それでも、エジプト人は勇敢な戦士とみなされ、前3世紀初めにプトレマイオス5世の改革を期して将校や騎兵隊員としてよく登用され始めた。また、エジプト軍人は一般住民に比べて高い社会・経済的地位を享受することができた[182]。
信頼でき、忠誠な軍人を確保するために王朝は豊かな財政資源と富に対するエジプトの歴史的評判を活用するいくつかの戦略を開発した。その一環として展開された宣伝は、詩人のテオクリトスが「プトレマイオスは自由人が持つことができる最上の雇用人だ」と主張したことからも証明されている[177]。傭兵たちは現金と穀物の配給を受ける形で給料をもらった。前3世紀にプトレマイオス軍の歩兵は、約1ドラクマ銀貨の手当を毎日もらったと伝える。このような条件は東地中海各地から新兵を引き入れ、彼らは「給料をもらう外国人」という意味の「ミストフォロイ・ゼノイ(misthophoroi xenoi)」とも呼ばれた。前2世紀から1世紀に至ると、ミストフォロイは主にエジプト国内で募集された。また、職業軍人には割り当て地という意味の「クレーロイ(kleroi、クレーロスの複数形)」が私有地として与えられ、その土地から産出された生産物を給料に代替するという屯田方式の制度が運営された。クレーロイは軍隊の階級や部隊、宿舎(stathmoi)や地域民の居住地によって様々な形で散在していた。遅くとも前230年頃になると、このような私有地はエジプト出身の下級歩兵のマキモイにも提供された[177]。クレーロイの提供は広範囲に行われた。騎兵隊員は少なくとも70アローラ[注 17]の土地を受け取ることができ、歩兵隊員は25-30アローラ、マキモイは一つの家族が生活できる基準に当する5アローラを受けた。プトレマイオス軍での服務が持つ高い収益性の性質は、王朝への忠誠を保障するのに効果的だったと見られる。軍隊の暴動や反乱は珍しく、反乱に加わった兵士たちも土地の下賜と異なるインセンティブにより懐柔されたりした[183]。
他のヘレニズム国家と同様、プトレマイオス軍はマケドニアの教理と組織を承継した[184]。アレクサンドロス大王時代の騎兵は、戦術と数的な面でより大きな役割を担い、ファランクスは歩兵の主力として機能した。プトレマイオス軍の多民族的な性格は、公認された組織の原則だった。兵士たちは出身地域別に訓練を受けたり、作戦に投入された。概してクレタ人は弓手、リビア人は重装歩兵、トラキア人は騎兵として服務した[177]。部隊の編成と武装も民族別に行われた。しかし、実戦では様々な民族の兵士が一緒に戦うよう訓練され、グレコ・マケドニア人将校の一元化された指揮は、ある程度の結束と調整が可能にしてくれてラフィアの戦いでプトレマイオス軍の士気を維持し、戦闘欲を高めるのに多大な役割を果たした[177]。
海軍
一部の歴史家はプトレマイオス朝のエジプトが海軍力の伝統的な様式を革新したおかげで地中海の制海権を掌握し、歴代統治者が前例のない方式により権力と影響力を行使できたと描写する。キプロス島、クレタ島、エーゲ海の諸島、トラキアなどの東地中海全域にエジプトの領土と封臣たちが散在しており、セレウコス朝とマケドニアからこれを防御するためにも大規模な海軍を必要とした。一方、エジプト海軍は収益性のよい海上貿易を保護したり、ナイル川に沿って海賊を掃討する任務も務めた[185]。プトレマイオス朝の海軍の起源と伝統はアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争が起こった前320年頃にさかのぼる。多くのディアドコイがエーゲ海と東地中海の制海権をめぐって争うと[186]、プトレマイオス1世はエジプト本土を防御し、外部からの侵入に備えて自分の支配権を強固にする過程で海軍を創設した。プトレマイオス1世を始めとする王朝の歴代統治者は、ギリシアやアジアに陸上帝国を建設するよりも、海軍力を増強させて海外に進出することを好んだ[187]。前306年にサラミスの海戦で大敗したにもかかわらず、エジプト海軍は以後の数十年間、エーゲ海と東地中海における支配的な軍事力となった。プトレマイオス2世はエジプトを同地域の最も優れた海軍大国にするという父王の政策を継承した。彼の治世にエジプト海軍はヘレニズム世界の最大規模に成長し、古代に製作された最大の戦艦の一部も保有していた[187]。第一次シリア戦争期にエジプト海軍はセレウコス朝とマケドニア海軍を撃退させ、エーゲ海と東地中海を掌握した。クレモニデス戦争でもエジプトはマケドニアを封鎖し、ギリシャ本土に対するアンティゴノス朝の野心を牽制することに成功した[188]。
絶頂期であったプトレマイオス2世の時代にエジプト海軍は336隻の戦艦で構成され[189]、輸送船と同盟国の艦船まで含めておよそ4千隻以上の艦船を保有していたとされる[189]。このような大規模の艦隊を維持するのにかかった多くの費用はエジプトの莫大な富と資源によって裏付けられた[189]。海軍の主要基地はアレクサンドリアとキプロスのネアパフォスにあった。エジプト海軍は東地中海、エーゲ海、レバント海、ナイル川などの各地で活動したほか、インド洋方面に向けた紅海にても定期的にパトロールを行った。このため海軍はアレクサンドリア艦隊、エーゲ海艦隊、紅海艦隊、ナイル川艦隊にそれぞれ編成された。第二次シリア戦争が始まると、エジプト海軍は一連の敗北を経験し、海外領土の喪失とともに制海権が緩んだことで、海軍の軍事的な重要性もまた低下した。その後、2世紀にわたってエジプト海軍は海上路の保護や海賊の掃討を中心に運営されてから、末期にローマ帝国が台頭する中にクレオパトラ7世によって部分的に復活した。エジプト海軍はアクティウムの海戦に参加したが、致命的な惨敗を喫し、王朝の滅亡と同時に消滅した。
注釈
- ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[14]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。
- ^ プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。
- ^ 離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した[33]。エジプトとキュレネが砂漠で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった[33]。
- ^ ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。
- ^ アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻ベレニケ1世の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である[41][42]。
- ^ アレクサンドリア図書館の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。モスタファ・エル=アバディは現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる[44]。しかし、フランソワ・シャムー[41]や本村凌二[45]など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。
- ^ プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である[55]。
- ^ 波部雄一郎は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している[63]。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる[63]。従って本文では伝統的な見解に従った。
- ^ a b プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2014に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204[64]、前221-前204[65][66]、前221-前203[42]、前222-前206[67]、前222-前205[68]。
- ^ 実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある[63]
- ^ このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は#グレコ・マケドニア人とエジプト人を参照。
- ^ この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年[76]、前206年[79]、前205年[74]。
- ^ 王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式[87]。
- ^ 山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない[96]。
- ^ 松原『西洋古典学事典』[110]はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。
- ^ 例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある[145]。
- ^ aroura/arourae、古代エジプトの面積単位。1アローラ当たり2,756m2
- ^ 七十人訳という名称は、72人の翻訳者によって72日間で完成したとする伝説による[233]。
出典
- ^ アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p.191
- ^ 森谷 2000, p. 7
- ^ 桜井 1997, p. 191
- ^ 森谷 2000, p. 6
- ^ a b エル=アバディ 1991, p. 20
- ^ a b c 山花 2010, p. 158
- ^ 森谷 2000, p. 150
- ^ 桜井 1997, p. 192
- ^ 桜井 1997, p. 193_194
- ^ a b c d シャムー 2011, pp. 59-60
- ^ ウォールバンク 1988, p. 62
- ^ a b c d 西洋古典学事典, pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より
- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 139
- ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 66
- ^ シャムー 2011, p. 64
- ^ ウォールバンク 1988, p. 65
- ^ 山花 2010, p. 163
- ^ 山花 2010, p. 166
- ^ a b c シャムー 2011, p. 65
- ^ シャムー 2011, p. 67
- ^ ウォールバンク 1988, pp. 62-81
- ^ シャムー 2011, pp. 59-95
- ^ シャムー 2011, p. 71
- ^ シャムー 2011, p. 72
- ^ ウォールバンク 1988, p. 74
- ^ 波部 2014, p. 108
- ^ シャムー 2011, p. 76
- ^ a b c シャムー 2011, p. 77
- ^ ウォールバンク 1988, p. 76
- ^ ウォールバンク 1988, p. 79
- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 80
- ^ シャムー 2011, p. 100
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 101
- ^ 拓殖 1982, p. 24
- ^ 波部 2014, p. 16
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 102
- ^ 波部 2014, pp. 79-87
- ^ a b 波部 2014, p. 88
- ^ a b ターン 1987, p. 21
- ^ 波部 2014, p. 96
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 104
- ^ a b 拓殖 1982, p. 25
- ^ シャムー 2011, p. 103
- ^ エル=アバディ 1991, p. 66
- ^ a b 桜井 1997, p. 203
- ^ エル=アバディ 1991, p. 24
- ^ 拓殖 1982, p. 29
- ^ a b c d e 拓殖 1982, p. 27
- ^ a b c d e f g シャムー 2011, p. 105
- ^ 拓殖 1982, p. 28
- ^ 波部 2014, pp. 192-193の引用より孫引き
- ^ アッピアノス『シリア戦争』No.13§65
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 107
- ^ クレイトン 1999, p. 269
- ^ a b 『バビロニア年代誌』BHCP11
- ^ 『バビロニア年代誌』BHCP11、訳者サマリーより
- ^ 波部 2014, pp. 192-193
- ^ 波部 2014, p. 183
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 108
- ^ ユスティヌス『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349
- ^ 波部 2014, p. 18
- ^ 山花 2010, p. 169
- ^ a b c d e 波部 2014, pp. 18-21
- ^ 波部 2014, p. 287
- ^ 西洋古典学事典,p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より
- ^ ユスティヌス『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4
- ^ a b 山花 2010, pp. 169-170
- ^ クレイトン 1999, p. 265
- ^ ユスティヌス、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5
- ^ a b シャムー 2011, p. 145
- ^ クレイトン 1999, p. 270
- ^ a b c シャムー 2011, p. 146
- ^ a b c d 山花 2010, p. 170
- ^ a b c 波部 2014, p. 238
- ^ ポリュビオス『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276
- ^ a b c シャムー 2011, p. 147
- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 167
- ^ 周藤 2014a, p. 6
- ^ 周藤 2014a, p. 1
- ^ a b 周藤 2014a, p. 9
- ^ a b シャムー 2011, p. 150
- ^ シャムー 2011, p. 151
- ^ シャムー 2011, p. 152
- ^ 本村 1997a, p. 203
- ^ シャムー 2011, pp. 158-159
- ^ a b c 周藤 2014a, p. 10
- ^ ポリュビオス、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7
- ^ a b 山花 2010, p. 171
- ^ a b c d e f g h i j k l クレイトン 1999, p. 271
- ^ 周藤 2014a, pp. 7,12
- ^ a b 山花 2010, p. 172
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 170
- ^ クレイトン 1999, p. 272
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 190
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 191
- ^ a b c d e f 山花 2010, p. 173
- ^ a b c シャムー 2011, p. 192
- ^ a b c クレイトン 1999, p. 274
- ^ 拓殖 1982, p. 34
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 193
- ^ a b シャムー 2011, p. 194
- ^ シャムー 2011, p. 196
- ^ a b c d e f クレイトン 1999, p. 275
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 200
- ^ a b c シャムー 2011, p. 201
- ^ a b c d e クレイトン 1999, p. 276
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 220
- ^ シャムー 2011, pp. 210-219
- ^ シャムー 2011, p. 219
- ^ a b 西洋古典学事典, pp. 1146-1147 「ベレニーケー」の項目より
- ^ a b シャムー 2011, p. 221
- ^ クレイトン 1999, p. 277
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 223
- ^ シャムー 2011, p. 222
- ^ a b シャムー 2011, p. 224
- ^ 本村 1997b, p. 310
- ^ シャムー 2011, p. 225
- ^ a b 山花 2010, p. 183
- ^ シャムー 2011, p. 226
- ^ a b c シャムー 2011, p. 227
- ^ a b c シャムー 2011, p. 228
- ^ a b c d e 本村 1997b, p. 316
- ^ シャムー 2011, p. 229
- ^ a b シャムー 2011, p. 230
- ^ a b シャムー 2011, p. 232
- ^ a b 本村 1997b, p. 317
- ^ a b クレイトン 1999, p. 278
- ^ シャムー 2011, p. 233
- ^ 山花 2010, p. 185
- ^ クレイトン 1999, p. 279
- ^ a b c d e f g h 森谷 1997, p. 1997
- ^ a b c d 周藤 2014b, p. 19
- ^ ウォールバンク 1988, p. 145
- ^ ターン 1987, pp. 161-186
- ^ a b 波部 2014, p. 43
- ^ a b c 高橋 2004, pp. 148-149
- ^ a b c 波部 2014, p. 44
- ^ ウィルキンソン 2015, p. 425
- ^ a b c d 波部 2014, p. 52
- ^ a b c d e 周藤 2014b, pp. 136-145
- ^ a b c 高橋 2004, p. 156
- ^ a b マニング 2012, p. 151
- ^ 櫻井 2012, p. 23
- ^ ウィルキンソン 2015, p. 421
- ^ 櫻井 2012, p. 28
- ^ 周藤 2014b, pp. 312-317
- ^ a b c 古谷野 2003, p. 260
- ^ 周藤 2014b, p. 131
- ^ a b 周藤 2014b, p. 134
- ^ 周藤 2014b, pp. 135, 136-145
- ^ a b c d e 山花 2010, p. 201
- ^ a b エジプト百科事典, p. 178-179,「交易」の項目より
- ^ ウォールバンク 1988, p. 146
- ^ ウォールバンク 1988, p. 147
- ^ a b c d e f 山花 2010, p. 202
- ^ 周藤 2014b, p. 136
- ^ a b c 周藤 2014b, p. 137
- ^ 高橋 2017, p. 32
- ^ a b c 周藤 2014b, p. 138
- ^ a b c 周藤 2014b, p. 140
- ^ ウォールバンク 1988, p. 155
- ^ 周藤 2014b, p. 141
- ^ a b 石田 2007, pp. 83-84
- ^ シャムー 2011, pp. 495-496
- ^ a b ワインバーグ 2016, p. 56
- ^ シャムー 2011, pp. 507-509
- ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 57
- ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 250
- ^ a b 周藤 2014b, p. 17
- ^ ベリー 1966, p. 39
- ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 58
- ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 94-111
- ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 124-129
- ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 61
- ^ 周藤 2014b, p. 94
- ^ a b c 周藤 2014b, pp. 95-100
- ^ a b c d e f フィッシャー・ボヴェ 2015
- ^ フィッシャー・ボヴェ.“Egyptian Warriors: The Machimoi of Herodotus and the Ptolemaic Army,” Classical Quarterly 63 (2013): 209–236, 222–223.
- ^ Sean Lesquier, Les institutions militaires de l’Egypte sous les Lagides (Paris: Ernest Leroux, 1911);
- ^ Roger S. Bagnall, “The Origins of Ptolemaic Cleruchs,” Bulletin of the American Society of Papyrology 21 (1984): 7–20, 16–18.
- ^ Heinz Heinen, Heer und Gesellschaft im Ptolemäerreich, in Vom hellenistischen Osten zum römischen Westen: Ausgewählte Schriften zur Alten Geschichte. Steiner, Stuttgart 2006, ISBN 3-515-08740-0, pp. 61–84.
- ^ フィッシャー・ボヴェ 2013
- ^ Michel M. Austin, The Hellenistic World from Alexander to the Roman Conquest: A Selection of Ancient Sources in Translation (Cambridge: Cambridge University Press, 2006) #283, l. 20.
- ^ Nick Sekunda, “Military Forces. A. Land Forces,” in The Cambridge History of Greek and Roman Warfare (Cambridge: Cambridge University Press, 2007)
- ^ The Ptolemies, the Sea and the Nile: Studies in Waterborne Power, edited by Kostas Buraselis, Mary Stefanou, Dorothy J. Thompson, Cambridge University Press, pp. 12–13.
- ^ Robinson, Carlos. Francis. (2019). "Queen Arsinoë II, the Maritime Aphrodite and Early Ptolemaic Ruler Cult". Chapter: Naval Power, the Ptolemies and the Maritime Aphrodite. pp.79–94. A thesis submitted for the degree of Master of Philosophy. University of Queensland, Australia.
- ^ a b Robinson. pp.79-94.
- ^ Muhs, Brian. (2019). "The Ancient Egyptian economy, 3000–30 BCE". Chapter 7: The Ptolemaic Period. Cambridge University Press
- ^ a b c Muhs.
- ^ a b 周藤 2014b, p. 105
- ^ a b c シャムー 2011, pp. 455-459
- ^ a b c d 周藤 2014b, p. 106
- ^ a b 周藤 2014b, pp. 114-115
- ^ シャムー 2011, p. 475
- ^ a b 周藤 2014b, pp. 116-117
- ^ a b 周藤 2014b, p. 119
- ^ a b 周藤 2014b, pp. 119-120
- ^ シャムー 2011, p. 476
- ^ クラウク 2019, p. 43 の引用より孫引き
- ^ クラウク 2019, p. 39
- ^ クラウク 2019, p. 41
- ^ クラウク 2019, pp. 40-41
- ^ クラウク 2019, p. 32
- ^ クラウク 2019, p. 43
- ^ クラウク 2019, p. 45-46
- ^ a b 周藤 2014b, p. 111
- ^ a b 周藤 2014b, p. 112
- ^ 周藤 2014b, p. 113
- ^ 波部 2014, p. 187
- ^ a b 波部 2014, p. 188
- ^ a b 波部 2014, p. 190
- ^ 波部 2014, p. 200
- ^ 波部 2014, pp. 190, 200
- ^ 波部 2014, p. 133
- ^ 波部 2014, pp. 124-126
- ^ a b クラウク 2019, p. 63
- ^ 長谷川 2014, pp. 67-68
- ^ 櫻井 2016
- ^ 周藤 2014a
- ^ a b 周藤 2014b, pp. 312-330
- ^ 石田 2004
- ^ a b ウィルキンソン 2002, p. 27
- ^ a b c スペンサー 2009, p. 66
- ^ 小川 1982, p. 132
- ^ a b 小川 1982
- ^ シャムー 2011, p. 477
- ^ クラウク 2019, p. 64
- ^ a b シュテルン、サフライ 1977, p. 17
- ^ シュテルン、サフライ 1977, p. 33
- ^ 秦 2018, pp. 11-16
- ^ 秦 2018, pp. 17-18
- ^ 秦 2018, p. 35
- ^ コトバンク、「七十人訳聖書」の項目より
- ^ 秦 2018, p. 52
- ^ 秦 2018, pp. 44-132
- ^ 秦 2018, p. 202
プトレマイオス朝と同じ種類の言葉
- プトレマイオス朝のページへのリンク