カイロ 歴史

カイロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 05:08 UTC 版)

歴史

カイロ郊外、ギーザ三大ピラミッド
カイロ郊外、ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド
エジプト考古学博物館

古代

古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、エジプト新王国時代には廃墟となっていた。

アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところにが築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、ローマ帝国アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.英語版; Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。

イスラム帝国時代

イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始して東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後、ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。

9世紀に入るとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、既にアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。

カイロ市の成立

フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった(元々フスタートもミスルと呼ばれていた)。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学イブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出して、イスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。

ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はファーティマ朝に度々侵攻し、ファーティマ朝はエルサレム王国に貢納することで平和をあがなった。1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、代わって甥のサラーフッディーン(サラディン)が実権を握った。

1169年にファーティマ朝に代わってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーンは、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させた。カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年バグダードモンゴルに征服された後は、アッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハル(アル=アズハル大学)はスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力を持つようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。

しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。

近世以降・新市街の建設

1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。

1798年フランスナポレオン・ボナパルトエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍1801年8月には降伏する。

1847年のカイロ市地図
19世紀後半のシタデル

彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱に乗じて台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝の下で再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。特に19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、フランスの首都パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した[13]。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった[14]。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。

2011年2月8日のタハリール広場のデモ

1922年にエジプトは独立を果たし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っていた。これに不満を持った市民は1952年1月26日に「黒い土曜日」と呼ばれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。

革命政府はカイロの近代化を進め、周囲の砂漠地帯に新都市を建設し始めた。1960年代には東部郊外のナスルシティ英語版などに高級住宅街の開発が進められ、1970年代には東部にオブール英語版市を、西部のギザ郊外に10月6日市を建設した。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した[15]。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出した。

首都における不満は市民の抗議活動を招き、時には政権に影響を与えた。1977年1月には食料品などの値上げに伴う不満から大規模なデモが発生。同月19日にはエジプト内務省が外出禁止令を発出、デモ隊に向けて発砲を繰り返して多数の死者を出し、サダト政権を揺るがせた[16]。また、2011年ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。

また、2012年頃からは電力不足により停電が常態化しており、2014年には都市部においても1時間の停電が1日に3、4回起きることもある[17][18]。同年9月には1日近くに亘る停電も発生し都市機能は麻痺した[19]。これに対してアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領は、120億ドルの資金が電力解消に必要であり、エジプトは現在それだけの経済的余裕を有していないと述べており、改善の見通しは全く立っていない[20]

こうした人口増加により、カイロでは交通渋滞大気汚染も深刻になっている。その解決策と雇用拡大を兼ねて、シーシー政権は2015年、カイロ中心部から東方約35キロメートル~約50キロメートルにかけて、カイロ国際空港や2000年代から建設の始まった新都市ニューカイロ英語版よりもさらに東に「新行政首都英語版」の建設を開始した。エジプト国防省系企業「新首都都市開発」の所有地(714平方キロメートル)を開発して、650万人の居住を想定している。総事業費は約450億ドルを見込んでおり、2019年から2020年にかけて、大統領府や官庁などを移転する計画である[9][21]


  1. ^ Distribution Egyptians By Governorate - Census 2017 (Theme: Census - pg.15)”. Capmas.gov.eg. 2021年7月8日閲覧。
  2. ^ Archived copy”. 2021年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  3. ^ Density By Governorate 1/7/2020 - Area km2 (Theme: - pg.14)”. Capmas.gov.eg. 2021年7月8日閲覧。
  4. ^ Total area km2, pg.15”. Capmas.gov.eg. 2015年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月25日閲覧。
  5. ^ EGYPT: Greater Cairo (Estimate 01-07-2020)”. Citypopulation.de. 2021年7月8日閲覧。
  6. ^ Population Estimates By Sex & Governorate 1/1/2021 (Theme: Population - pg.4)”. Capmas.gov.eg. 2021年7月8日閲覧。
  7. ^ カイロ / 概要(アラビア語)”. 2018年12月18日閲覧。
  8. ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
  9. ^ a b 「エジプト首都機能移転へ 砂漠に新都市建設 慢性的渋滞/深刻な大気汚染」『毎日新聞』朝刊2018年12月13日(国際面)2018年12月16日閲覧。
  10. ^ Global Cities 2017 AT Kearney 2017年公表 2017年8月4日閲覧。
  11. ^ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。
  12. ^ プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP
  13. ^ 『世界の都市の物語10 カイロ』牟田口義郎 1992年10月20日第1刷発行(文藝春秋社)p274–276
  14. ^ 『世界の大都市(下)』pp42-43 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
  15. ^ 『ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカアラビア半島』p95 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
  16. ^ 発砲、放火・・・混乱の首都 無政府状態続く『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月20日朝刊、13版、7面
  17. ^ 秋山信一 (2014年7月3日). “ナイル.com:(25)「停電」はニュースではない”. 毎日新聞. オリジナルの2014年9月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140910184023/http://mainichi.jp/feature/news/20140703mog00m030019000c.html 2014年9月11日閲覧。 
  18. ^ 大内清 (2014年8月22日). “千夜一夜 停電で「お先真っ暗」”. MSN産経ニュース. オリジナルの2014年9月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140825100434/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140822/mds14082203010006-n1.htm 2014年9月11日閲覧。 
  19. ^ “انقطاع-غير-مسبوق-للكهرباء-بمصر” (Arabic). Aljazeera. (2014年9月4日). http://www.aljazeera.net/news/arabic/2014/9/4/انقطاع-غير-مسبوق-للكهرباء-بمصر 2014年9月11日閲覧。 
  20. ^ “Egypt president says no magic bullet for power problems after major blackout” (English). REUTERS. (2014年9月6日). http://www.reuters.com/article/2014/09/06/egypt-sisi-blackouts-idUSL5N0R70GX20140906 2014年9月11日閲覧。 
  21. ^ 中国 エジプト投資活発/「新首都」建設スクラム/「一帯一路」の要衝 影響力拡大狙う」東京新聞』朝刊2018年12月16日(国際面)2018年12月27日閲覧。
  22. ^ 中埃成功合作项目--开罗国际会议中心”. 中華人民共和国外交部 (2004年6月16日). 2018年7月29日閲覧。
  23. ^ China's Foreign Aid” (PDF). ユニセフ. 2018年7月29日閲覧。
  24. ^ Weather Information for Alexandria”. 2012年5月11日閲覧。
  25. ^ "BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Cairo" - BBC Weather
  26. ^ 『世界の大都市(下)』p40 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
  27. ^ Weather Information for Alexandria”. 2012年5月11日閲覧。
  28. ^ "BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Cairo" - BBC Weather
  29. ^ カイロ県ウェブサイト
  30. ^ “【地球ぐるりとEYE】カイロから/消えゆくトラム 客まばら”. 日本経済新聞夕刊. (2017年5月16日). http://www.nikkei.com/article/DGKKZO16444810W7A510C1EAC000/ 
  31. ^ 『世界の歴史と文化 エジプト』p285-287 新潮社 1996年12月10日
  32. ^ 『ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカ・アラビア半島』p92-93 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
  33. ^ 新型インフル対策で豚処分が裏目 エジプトでゴミ問題が深刻に (1/2ページ) - MSN産経ニュース
  34. ^ Sister city agreements”. Cairo Governorate. 2010年9月23日閲覧。
  35. ^ New York City Global Partners”. The City of New York (2010年). 2010年1月27日閲覧。






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