教父
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教父(きょうふ、ギリシア語: Εκκλησιαστικοί Πατέρες、ラテン語: Patres Ecclesiae、ドイツ語: Kirchenväter、英語: Church Fathers)とはキリスト教用語で古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々をいう。
注釈
- ^ ネストリオスとエウテュケスの異端に関してはキリスト教の教理の根幹に関わるものではないとし、アリウス派やアポリナリオス主義などの教理の根幹に関わる異端と同列に議論し排除するのは大きな問題であるとする研究もある。この研究によるとネストリオスの異端宣告には、アレキサンドリア学派とアンティオキア学派との政治的対立が背景にあり、さらには互いの神学用語、哲学用語の使用にずれが見受けられ、その他の理由からも再評価が必要だとされている。[1]
- ^ ?教父学の泰斗ドム・オリヴィエ・ルッソー(1984年没)の言を借りるならば、-シリア教会はキリスト単性論に傾いたとはいえ、そこにはすばらしい過去と、目を見張るような神学がある。その教会の学者たちは、キリスト論においては誤っていたとしても、それ以外の信仰上の問題では、概して中立の立場をとっており、サルーグのヤコブの詩的作品の一断片である「モーセの顔の覆い」は神学上のあらゆる論争の埒(らち)外にある。この説教には、キリスト教会の一体に関する教父学的著作の粋ともいうべき美しい節々がみられる。-?稗田操子 「モーセの顔の覆い」について、p.37、『エイコーン』第5号、1991年2月10日、新世社。
出典
- ^ 古代キリスト論の歩み ハンス・ユルゲン・マルクス。
- ^ a b 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』p.70
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 p.83
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 p.88
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 p.402
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 pp.131-134
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 pp.162-164
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 pp.135-136
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 pp.238-239
- ^ 『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』 pp.263-265
- ^ レオ1世 著、熊谷賢二 訳 『キリストの神秘-説教全集-』 創文社、初版1965年。pp.12-14
- ^ a b c d e オリエントの歴史と文化-古代学の形成と展開-筑波大学附属図書館。p.59
- ^ 教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見演説 ペルシアの賢者アフラハト2018年9月4日閲覧。
- ^ アロイジオ・デルコル『聖エフレム伝』愛心館、初版、1993年6月1日。pp.72-73
- ^ 生存年代は英語版より記載
- ^ Brock Sebastian, 石渡巧「シリア語文学:諸文化の十字路」『アジア文化研究』第32号、国際基督教大学、2006年、 157-176頁、 ISSN 04542150、 NAID 120006683655。
- ^ 砂漠の師父略伝 2018年2月28日閲覧。
- ^ G・マキャベッリ、D・ビアンコ編、佐藤三夫 訳 『古典の祈り』 中央出版社、1979年1月15日初版。pp.14-15、pp.138-139
- ^ 『大聖マカリオスの言行録』 稗田操子 訳、中央出版社、1985年7月25日。p.50
- ^ 『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』pp.718-719
- ^ 『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』pp.746-750
- ^ 『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』pp.808-815
- ^ 『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』pp.900-904
- ^ 第一奉献文(ローマ典文) ミサ式次第 カトリック宇部教会
- ^ 『公教会祈祷文』 明治42年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899649
- ^ 第2バチカン公会議の流れ 第2バチカン公会議から50年 Laudate 女子パウロ会
- ^ 『日本聖公会 祈祷書』272頁、日本聖公会、1991年6月20日 第一版
師父
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大アントニオス 251年? - 356年 パコミオス(英語版) 292年? - 348年 ヒラリオン (修道士)(英語版) 291年? - 371年? (パレスティナの隠修士) エジプトのマカリオス 300年? - 391年? ポイメン(英語版) 340年? - 450年? アルセニオス(英語版) 350/354年 - 445年 ポントスのエウァグリオス 345年 - 399年 シナイのネイロス(英語版)(アンキュラのネイロス)? - 430年以降 (息子テオドロスと共にシナイ山に隠棲した。東方教会の伝統で重視されるイエススの祈りを明記した一人。) ヨハネス・カシッアヌス(英語版) 360年 - 435年 シェヌーディ(Shenouda) 348年? - 466年? (修道院長。エフェソス公会議にアレクサンドリア司教のキュリロスに随行して出席) ガザのバルサヌフィオス(英語版) ? - 540年? (ガザの隠修士、多くの書簡を残す) ヨアンネス・クリマコス 579年以前 - 649年 (シナイの隠修士、後に聖カタリナ修道院長、『楽園の梯子』の著者)
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師父(しふ)
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自分に武術を教えてくれる人間。師父は自分の父親と同視されるため、尊敬の念を抱かねばならない。また、父親を勝手に替えることができないのと同様、弟子の方が勝手に師父を替えることはできないわけでないが、非常に礼にもとる行為として非難の対象となる。同様に、師匠と弟子の間の恋愛は近親相姦に匹敵するほど不道徳な行為として認識されていた時代もあり、金庸の武俠小説『神鵰剣俠』はそれをテーマとしている。
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師父
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「千年狐 〜干宝「捜神記」より〜」の記事における「師父」の解説
廣天が一時期身を寄せた寺の住職。武芸を身につけ、大事なもの(炭片)を守る強さを得たいという廣天の決意を見込んで弟子入りを許可する。しかし、その常軌を逸した間抜けぶりが他の門下生たちに多大な被害をもたらしたため破門を言い渡す。別れ際に「腐ったミカン」という辛辣な言葉を浴びせたものの、多少の情はあったらしく、その後すぐに号泣しながら馬車を追いかけてくると「何か他にいい所あるから」と励ました。
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