産業労働者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
日本に渡った朝鮮人は、当初は炭鉱夫や土工などの労働が多かった。炭鉱夫としての朝鮮人の雇用は1897年に筑豊で始まった。朝鮮半島では植民地政策の鉄道敷設のために鉄道工夫が雇用されて、日露戦争時からは兵站の必要から急増した。鉄道工夫は、のちに日本の鉄道敷設でも肥薩線や山陰線をはじめとして雇用が進んだ。第一次世界大戦で欧州からのアジアへの輸出が減ると、日本の輸出が増加して大戦景気と呼ばれる好景気が到来して、人不足となって紡績、炭鉱、土建で朝鮮人労働者の求人が急増した。朝鮮人の賃金は日本人の賃金の3分の2以下であり、日本人労働者からは反感を呼び、在日朝鮮人を迫害する一因となった。労働者の募集は日本企業に委託されたブローカーが行ったが、過酷な労働条件や虐待で朝鮮人に被害を出したため、朝鮮総督府が防止を試みる。しかし、総督府の規則は内地には及ばないため、悪質なブローカーは絶えなかった。渡航者の規制が撤廃されると1921年の約3万人から1923年には9万人となり、道路工事、上下水道工事、水力発電所工事の土工となった。過酷な労働で死者を出した事件もあり、読売新聞の報道がもとで明らかとなった信濃川逃亡労働者殺害事件がある。単身の出稼ぎが多く、1924年の調査では、土工の78パーセント、職工の86パーセント、日雇労働者の65パーセントが故郷に送金していた。
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