ようらん‐き〔エウラン‐〕【揺×籃期】
揺籃期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 04:23 UTC 版)
「海軍航空隊 (フランス海軍)」の記事における「揺籃期」の解説
1909年7月25日、ルイ・ブレリオは英仏海峡の初横断に成功し、1910年3月28日にはアンリ・ファーブルがベール湖で水上機の湖上離水に成功した。 当時の海軍大臣オーギュスト・ブエ・ド・ラペイレール海軍中将は1910年4月にジュール=ルイ=マリー・ル・ポール代将 (Jules-Louis-Marie Le Pord) を長に同年7月1日に委員会を設立させた。この委員会が海軍航空隊の起源であるとされる。当時、委員会では熱気球に対して飛行機が有利であると主張した。これに大臣は興味を示し海軍飛行場の設立を認めた。1910年7月に海軍は士官の飛行教育課程をフランス飛行クラブに指定した。8月から操縦士の教育を開始し1911年3月まで続いた。 1911年6月、ルネ・ダブリュイ海軍大佐 (fr:René Daveluy) を指揮官に実験飛行機をまとめるように任せる。そしてモンペリエとフレジュス (fr:Fréjus) に独立した基地を設け3種類の飛行機を与えられる。ダブリュイは1911年12月末に職を辞し、1912年3月20日に代理としてルイ・ファト海軍中佐 (Louis Fatou) が引き継いだ。フレジュス沿岸部に飛行場が完成する。この時期の海軍はわずかに2機の飛行機を有しているのみであった。このためモーリス・ファルマン製複葉機と水上機が届けられた。1912年6月中に水上機母艦「フードル」に水上機10機の装備を目指すも、飛行機は届けられなかった。 その後、ピエール・ル・ブリ海軍参謀総長 (Pierre Le Bris) の梃入れによりニューポール製飛行機への変換が求められる。1914年5月には無線機を装備した水上機12機が海軍演習に参加した。水上機は偵察任務に用いられ、地中海を縦横に飛行した。このころには24人の操縦士の教育を終了し、14機の水上機を要していた。海軍参謀総長は航空部門の本部をパリに設ける必要があるとし、1914年7月10日の命令により、8月1日にジャン・ノエル海軍大佐 (Jean Noël) がこの職に任命される。
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