ケルン大司教とは? わかりやすく解説

ケルン大司教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/14 23:25 UTC 版)

ケルンの司教領を中心とした司教区。

ケルン大司教(ケルンだいしきょう、Erzbischof von Köln、複数形はErzbischöfe von Köln)は、カトリック教会ドイツケルン教区首長大司教である。

歴史

中世

ローマから最も早くキリスト教が伝来したケルンは、313年皇帝コンスタンティヌス1世が発布したミラノ勅令により司教座が設置された。8世紀末には司教座が昇格し大司教座になり同時に領地は大司教領に昇格した。6世紀末〜13世紀末にかけてケルン司教(大司教)はフランク王国東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を持った。

大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教を領主とする聖職領邦となり、大司教座附属学校 (Domschule) の置かれたケルンはライン川流域の政治・文化の中心となった。またドミニコ会が設立したケルン大司教区付属神学校 (studium generale et solemne) ではアルベルトゥス・マグヌスマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義を行ない、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。そしてマイスター・エックハルトによってケルン大司教区付属神学校と大司教座附属学校はドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなり、両校を母体に1388年ケルン大学が創立された。

深緑=マインツ、オレンジ=ケルン、紫=トリーア、赤&うすピンク=ボヘミア、黒=ブランデンブルク、黄=ザクセン、青=ライン宮中伯(プファルツ)

1198年ローマ教皇インノケンティウス3世ヴェルフ家ホーエンシュタウフェン朝ローマ王位争いについて、「ライン川流域の4人の諸侯マインツ大司教・ケルン大司教・トリーア大司教ライン宮中伯の賛同が不可欠である」と宣言したため、ケルン大司教は事実上の選帝侯に昇格し大司教領も事実上の選帝侯領に昇格した。

1356年皇帝カール4世金印勅書を発布し大司教は正式に選帝侯に昇格した。

1457年ケルン市は帝国自由都市となり、選帝侯領はボンが新たな首都となった。

15世紀にマインツ選帝侯が行うようになるまでは選出された国王に帝冠を戴冠するのはケルン大司教選帝侯の職務であった、またケルン大司教選帝侯は帝国の構成国の一つイタリア王国の大書記官長だったが時代が進むに連れその官位は形式上のものになった。

1512年に選帝侯領が帝国クライスに組み込まれると、ケルン選帝侯領もクールライン・クライスの成員になった。

近世

宗教改革の影響を受けたケルン選帝侯ゲープハルト・トゥルフゼス・フォン・ヴァルトブルク英語版は1582年にカルヴァン派に改宗した。これによりエルンスト・フォン・バイエルン英語版が対立司教に選出され、1583年にケルン戦争英語版が勃発した。最終的にはヴァルトブルクが退位させられた。以降1761年までバイエルン系ヴィッテルスバッハ家が選帝侯位を独占した。三十年戦争ではカトリック側で参戦した。

1789年にフランス革命が起き、それが原因となって引き起こされたフランス革命戦争及びナポレオン戦争では幾度ともなく領土を占領された。

1801年リュネヴィルの和約によりライン左岸の領土がフランスに併合された。1803年2月25日帝国代表者会議主要決議により領土がヘッセン=ダルムシュタット方伯領やアレンベルク公領に併合され、ケルン選帝侯領は消滅した。

1824年、選帝権および領土を持たない大司教職として再設立され、21世紀に至る。

歴代ケルン大司教(1198年以降ケルン選帝侯)

画像 名前 就任 退任 備考
マテルヌス2世英語版 313/314年 名前が知られている最初のケルン司教、おそらくトリーアの司教でもある。聖人
オイフラテースドイツ語版 343年頃 346年 異端者であったという記述は不正確である可能性が高い
ゼーヴェリン英語版 397年 トゥールの聖マルティヌスの死を天の兆しを通して知ったと言われている。聖人。
カレンティヌスドイツ語版 565年 567年 大聖堂を拡張し、回廊を設置したと言われている。
エーフェリギジール英語版 590年 聖ゲレオンの井戸の塵で頭痛が治ったと言われている。聖人。遺骨は聖ペテロ教会(ケルン)に安置されている。
ゾラティウスドイツ語版 614年
ズンノヴェウスドイツ語版 620年以前
レメディウスドイツ語版 627年以前
クニベルト英語版 627年頃 648年以降 セヴェリヌスとヒルデボルドの間で最も重要な司教。聖人。
ボタンドゥスドイツ語版 648年以降 690年頃
シュテファンドイツ語版 690年頃 692/694年
ギゾドイツ語版 692/694年 711年
アンノ1世ドイツ語版 711/715年 715年
ファラムンドゥスドイツ語版 711/716年 723年
アルドゥインドイツ語版 721/723年 737年
レギンフリトドイツ語版 737年 743/745年
アギロルフ英語版 746/747年 748年以降 ケルン大聖堂のアギロルフス聖堂に眠る同名の殉教者と同一人物ではない。聖人。
ヒルデガール英語版 753年
ベルテルムスドイツ語版 762年    
リコルフ英語版 768年 777/782年  
大司教(795年以降)
ヒルデボルト英語版 787年 818年 カール大帝の顧問。建設時期より、ケルンの旧大聖堂を建設したとも考えられる。
ハデバルトドイツ語版 819年 841年 ブレーメンの聖アンスガルにデンマークへの宣教旅行のための船を与えた。
リウトベルトドイツ語版 842年   後にミュンシュター司教。
ヒルドゥインドイツ語版 842年 848/849年 以前はパリ近郊のサン・ドニ修道院長。
ギュンター英語版 850年 863年 解任された。873年没。建設時期より、旧大聖堂を建設した可能性がある。
ヴィリベルト英語版 870年 889年 大聖堂に埋葬された最初の大司教。
ヘルマン1世英語版 889/890年 924年 「敬虔者」とよばれた。ノルマン人によって破壊された教会のために、教皇ステファヌス6世から新しい聖遺物を受け取った。
ヴィヒフリトドイツ語版 924年 953年 皇帝オットー1世の宮廷司祭でもあった。
ブルーノ1世 953年 965年 ロレーヌ公も兼任し、初めて世俗権力と宗教権力を統合した。1801年まで、世俗の統治者であり続けた。聖人。
フォルクマールドイツ語版 965/966年 969年 ザンクト・パンタレオンで殉教者マウリヌスの遺骨を埋葬した。
ゲロ 969年 976年 ケルン大聖堂にゲロ十字架を寄贈した。
ヴァリン英語版 976年 985年 聖ペテロの杖の一部をトリーアに寄贈した。
エーファーガー英語版 985年 999年 ザンクト・パンタレオンに皇后テオファヌの埋葬を手配した。
ヘリベルト英語版 999年 1021年 ケルン大聖堂のパラティーナ礼拝堂を建設した。聖人。
ピルグリム英語版 1021年 1036年 イタリア初の大法官。以来、この職はケルン大司教と関係を保った。
ヘルマン2世英語版 1036年 1056年 「高貴卿」の異名を持つ、皇后テオファヌの孫。
アンノ2世 1056年 1075年 1074年に街から追放されたが、4日後に奪還した。聖人。
ヒルドルフドイツ語版 1076年 1078年 皇帝ハインリヒ4世によって、ケルンの人々に対して強制的に受け入れさせられた。
ジゲヴィン・フォン・アーレ英語版 1078年 1089年 焼失した聖マリア・アド・グラドゥス教会を再建した。
ヘルマン3世・フォン・ホーホシュターデンドイツ語版 1089年 1099年 「裕福卿」
フリードリヒ1世・フォン・シュヴァルツェンブルク英語版 1100年 1131年 1112年にケルン大聖堂でクサンテンの聖ノルベルトを司祭に任命した。
ゴットフリート・フォン・カイクは1131年に大司教に選出されたが、承認されなかった。
ブルーノ2世・フォン・ベルク英語版 1131年 1137年 1133年に先祖代々の城アルテンベルク・アン・デア・デュンをシトー会修道院として奉献した。
フーゴ・フォン・シュポンハイムドイツ語版 1137年   叙階からわずか4週間後に亡くなった。
アルノルト1世英語版 1137年 1151年 アルノルト1世の指導の下、クレルヴォーの聖ベルナルドは第2回十字軍の1147年にケルン大聖堂で説教を行った。
アルノルト2世・フォン・ヴィートドイツ語版 1151年 1156年 シュヴァルツラインドルフにベネディクト会修道院を設立した。
フリードリヒ2世・フォン・ベルク英語版 1156年 1158年  
ライナルト・フォン・ダッセル英語版 1159年 1167年 東方の三博士の聖遺物をケルンに移す手配をした。
フィリップ1世・フォン・ハインスベルク英語版 1167年 1191年 フリードリヒ1世バルバロッサによってウェストファリア公領が封建された。それまではザクセン大公領の一部であった。
ブルーノ3世・フォン・ベルク英語版 1191年 1193年 アルテンベルクのシトー会修道士になるための辞職。1200年頃没。
ケルン選帝侯(1198年以降)
アドルフ・フォン・アルテナ英語版 1193年 1205年 教皇インノケンティウス3世によって不貞の罪で廃位される。1220年頃没。
ブルーノ4世・フォン・ザイン英語版 1205年 1208年 前任者に捕らえられ、2年間投獄された。
ディートリヒ1世・フォン・ヘンゲバッハ英語版 1208年 1212/1215年 1212年に教皇の名において廃位。1215年に教皇によって廃位が確認された。1224年頃没。
エンゲルベルト1世・フォン・ケルン英語版 1216年 1225年 親族のフリードリヒ・フォン・イーゼンベルク伯の侍従たちに襲撃され、殴り殺された。聖人の称号を持つが、正式に列聖されたことはない。
ハインリヒ1世・フォン・ミュレンアルク英語版 1225年 1238年 エンゲルベルト1世の死に関わった者たちを処刑し、前任者の列聖も試みたが、成功しなかった。
コンラート1世英語版 1238年 1261年 1247年10月3日、ケルン近郊のヴォリンゲンでホラント伯ヴィルヘルム2世を(皇帝フリードリヒ2世に対抗して)反国王に選出し、1248年8月15日にゴシック様式のケルン大聖堂の礎石を据え、1255年3月3日にはアルテンベルクのシトー会修道院教会(=アルテンベルク大聖堂)の礎石を据えた。大司教座における最も重要な政治家の一人。
エンゲルベルト2世・フォン・ファルケンブルクドイツ語版 1261年 1274年 大司教の住居をケルンからボンに移した。
ジークフリート・フォン・ヴェスターブルク英語版 1275年 1297年 ヴォリンゲンの戦いで大敗を喫した。
ヴィクボルト・フォン・ホルテ英語版 1297年 1304年 在任期間中にゴシック様式の大聖堂の聖歌隊席が完成した。
1304年 ヴィルヘルム・フォン・ユーリヒ:教皇によって任命され、モンスの戦いで戦死した。
ハインリヒ2世・フォン・フィルネブルク英語版 1304年 1332年 教皇の専権による任命。
アドルフ・フォン・デア・マルクが1332年にケルン大聖堂の聖職者会議によって任命されたが、教皇により任命を拒否された。
ヴァルラム・フォン・ユーリヒ英語版 1332年 1349年 教皇の専権による任命。1334年にケルン市と友好条約を締結した。
ヴィルヘルム・フォン・ゲンネップ英語版 1349年 1362年 教皇の専権による任命。神聖ローマ帝国の平和を促進した。
ヨハン・フォン・フィルネブルクが大司教に選出されたが、教皇によって任命されたわけではなかった。
アドルフ・フォン・デア・マルク 1363年 1364年 1357年から1363年までミュンスター司教を務め、教皇の任命を受けたが、一族の絶滅を防ぐために辞任し、結婚してクレーフェ=マルク家の祖となった。
エンゲルベルト3世・フォン・デア・マルク英語版 1364年 1368年 1345年から1364年までリエージュ司教を務め、1366年からは管理権を剥奪された。教皇の専権による任命。
クノ2世・フォン・ファルケンシュタイン英語版 1366年 1370年 1366年–1370年、補佐司教の称号を持つ大司教区の管理者。1362年–1388年、トリーア大司教。
フリードリヒ3世・フォン・ザールヴェルデン英語版 1370年 1414年 教皇が総会の提案に基づいて任命した。
1414年 1414年 ヴィルヘルム・フォン・ベルクが大司教に選出されたが、教皇によって任命されたわけではなかった。
ディートリヒ2世・フォン・メールスドイツ語版 1414年 1463年 1415年からはパーダーボルン教区の管理者も務めた。
ループレヒト・フォン・デア・プファルツ英語版 1463年 1478年 1473年からは公職に就くことを禁じられ、1473年に皇帝によって廃位され、1478年に辞任を余儀なくされた。
ヘルマン4世・フォン・ヘッセン英語版 1473年 1480年 1473年–1480年、大司教区の管理者。
ヘルマン4世・フォン・ヘッセン英語版 1480年 1508年 1498年からはパーダーボルンの司教も務め、大司教区の負債を軽減し、典礼と教会生活を促進した。
フィリップ2世・フォン・ダウン英語版 1508年 1515年 議会を開催し、改革を実施した。
ヘルマン5世・フォン・ヴィート英語版 1515年 1547年 同時にパーダーボルンの司教であり、宗教改革運動を支持した。辞任。
アドルフ・フォン・シャウムブルクドイツ語版 1546年 1547年 大司教区の管理者
アドルフ3世・フォン・シャウムブルク英語版 1547年 1556年 1533年から補佐官となり、前任者の改革を部分的に撤回し、トレント公会議に参加した。
アントン・フォン・シャウンブルク英語版 1556年 1558年 司祭叙階と司教叙階を受ける前に亡くなった。
ゲープハルト・フォン・マンスフェルト英語版 1558年 1562年 司祭叙階と司教叙階を受ける前に亡くなった。
フリードリヒ4世・フォン・ヴィート英語版 1562年 1567年 教皇によって承認されなかった。辞任。1568年没。
ザレンティン・フォン・イーゼンブルク英語版 1567年 1577年 1574年からパーダーボルン司教も務めたが、辞任し、家族の絶滅を防ぐために結婚した。
ゲープハルト・トゥルフゼス・フォン・ヴァルトブルク英語版 1577年 1582年 プロテスタントの信仰を告白し結婚、退位。1601年没。
エルンスト・フォン・バイエルン英語版 1583年 1612年 同時にミュンスター、リエージュ、ヒルデスハイム、フライジングの司教。ヴィッテルスバッハ家出身の5人の司教の最初の人物(1478年以降)。
フェルディナント・フォン・バイエルン英語版 1612年 1650年 1595年から補佐司教を務め、同時にヒルデスハイム、リエージュ、ミュンスター、パーダーボルンの司教を務めた。1615年に神学校を設立した。
マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン英語版 1650年 1688年 1642年から補佐司教、同時にリエージュ、ヒルデスハイム、ミュンスターの司教、スタブロ=マルメディ帝国修道院の院長。1673年に聖パンタレオン修道院に退いた。
1688年 1688年 ヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクが補佐司教および司教座聖堂司祭に選出されたが、教会法で定められた大聖堂の総会での3分の2の多数を獲得できなかった。
ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン 1688年 1723年 同時にリエージュ、ヒルデスハイム、フライジング、レーゲンスブルクの司教を務め、1702年から1715年までフランスに亡命した。
クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン 1723年 1761年 1716年から1719年までレーゲンスブルク司教を務め、1719年からはミュンスターとパーダーボルンの司教、1722年からはケルンの補佐司教、さらに1724年からはヒルデスハイム司教、1728年からはオスナブリュック司教、1732年からはドイツ騎士団総長も務めた。大司教座に就いた最も華やかなバロック様式の君主。ブリュールのアウグストゥスブルク城とファルケンルスト城、エムスラントのゼーゲル近郊のクレメンスヴェルト城を建設した。
マクシミリアン・フリードリヒ・フォン・ケーニヒゼック=ローテンフェルス英語版 1761年 1784年 同時にミュンスター司教でもあり、1777年にボンアカデミーを設立し、教会啓蒙主義の拠点として発展した。
1784年 1784年 ヨハン・フィリップ・ヤコブ・フォン・ホルン=ゴールドシュミット(司教総代理
マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ 1784年 1801年 1780年から補佐司教を務め、同時にミュンスター司教とドイツ騎士団総長を務めた。世俗の統治者でもあった最後の大司教である。
アントン・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ英語版 1801年 1801年 後にドイツ騎士団総長となり、1801年にまずミュンスター司教に選出され、その後ケルン大司教に選出され、2度の選挙を受け入れたが、軍事情勢により職務に就くことができなくなった。
1801年 1822年 ヨハン・ヘルマン・ヨーゼフ・フォン・カスパール・ツ・ヴァイス(司教総代理
1822年 1825年 ヨハン・ヴィルヘルム・シュミッツ(司教総代理
フェルディナント・アウグスト・フォン・シュピーゲル英語版 1824年(任命) 1835年 大司教区を再編し、次世代の司祭に関心を寄せた。
クレメンス・アウグスト・フォン・ドロステ=フィシェリング 1835年 1845年 混合婚問題における非妥協的な姿勢のために逮捕され、1837年から公職に就くことを禁じられた。
1837年 1841年 ヨハン・ヒュスゲンが教皇庁総代理に就任
1841年 1841年 ヨハン・ヤコブ・イヴェンが教皇の任命により暫定教区統治者となった。
1841年 1845年 ヨハネス・フォン・ガイセル(管理補佐役)
ヨハンネス・フォン・ガイセル英語版 1845年 1864年 1841年から補佐司教を務め、フルダ司教会議の議長を務めた。1842年にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とともにケルン大聖堂の建設のための礎石を据えた。
1864年 1866年 ヨハン・アントン・フリードリヒ・バウドリ(司教総代理
パウル・メルケルス英語版 1866年 1885年 1874年から1885年にかけて文化戦争中に逮捕され、1885年から教皇庁枢機卿、1867年からはフルダ司教協議会議長を務めた。在任中、1880年にケルン大聖堂が完成した。
フィリップ・クレメンツ英語版 1885年 1899年 以前はヴァルミア司教であり、フルダ司教会議の議長でもあった。
フーベルト・テオフィル・ジマルドイツ語版 1899年 1902年 元パーダーボルン司教
アントン・フーベルト・フィッシャー英語版 1902年 1912年 カトリックドイツ人民協会の活動を支援した。
フェリクス・フォン・ハルトマン英語版 1912年 1919年 元ミュンスター司教。フルダ司教会議の議長を務め、兵士たちに司牧的ケアを提供しようとした。
1919年 1920年 ヨーゼフ・フォークト(司教総代理
カール・ヨーゼフ・シュルテ英語版 1920年 1941年 以前はパーダーボルン司教であったが、1930年にアーヘン教区をケルン大司教区から分離した。
1941年 1942年 エメリヒ・デイヴィッド(司教総代理
ヨーゼフ・フリンクス英語版 1942年 1969年 勇敢にナチスの不正に立ち向かい、フルダ司教会議の議長を務めたが、年齢を理由に辞任した。
ヨーゼフ・ヘフナー英語版 1969年 1987年 1968年からアクイレイアの補佐司教および名誉大司教。以前はミュンスター司教(1962-1969年)であり、ドイツ司教協議会の議長(1976-1987年)であったが、年齢を理由に辞任した。
1987年 1989年 フーベルト・ルーテ補佐司教、教区管理者。
ヨアヒム・マイスナー 1989年 2014年 元ベルリン司教。年齢を理由に辞任。
2014年 2014年 シュテファン・ヘッセ、教区長、教区管理者。
ライナー・ヴェルキ英語版 2014年 2003年から2011年までケルン補佐司教、2011年から2014年までベルリン大司教。2014年7月11日にケルン大司教に任命され、2014年9月20日に就任。

ケルン大司教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 02:09 UTC 版)

選帝侯」の記事における「ケルン大司教」の解説

イタリアにおける大書官長選出され国王戴冠するのはケルン大司教の職務であったが、15世紀以降マインツ大司教戴冠するようになった1801年ライン左岸フランスナポレオン)への割譲により選挙権を失う。1583年から1761年までバイエルン系ヴィッテルスバッハ家大司教位を独占選帝侯ソナタ少年時代ベートーヴェン作曲し当時のケルン大司教に献呈したことからこの名で通称される。

※この「ケルン大司教」の解説は、「選帝侯」の解説の一部です。
「ケルン大司教」を含む「選帝侯」の記事については、「選帝侯」の概要を参照ください。

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