SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代
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「アンリ・ティッセン」の記事における「SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代」の解説
1943年6月1日、第373ワロン歩兵大隊が武装親衛隊に移籍して旅団規模に拡張(7月3日にSS突撃旅団「ヴァロニェン」(SS-Sturmbrigade Walonien)と改称)されると、ティッセンもそれに伴って武装親衛隊へ移籍し、SS少尉(SS-Untersturmführer)となった。 1943年11月19~20日、訓練を完了し、東部戦線のチェルカースィに鉄道輸送された突撃旅団「ヴァロニェン」(約1,850名)は、翌44年2月17日までSS「ヴィーキング」師団の一部として、パルチザンやソビエト赤軍と熾烈な戦闘を繰り広げた。この時、ティッセンSS少尉は「ヴァロニェン」旅団第6(2cm 4連装対空砲)中隊の第1小隊長として戦い、様々な活躍を見せた。 そして、1944年2月13日に戦死した旅団長リュシアン・リッペールSS少佐の遺体を床下に埋葬していた丸太小屋が2月15日にソビエト赤軍の手に落ちた時、ティッセンSS少尉は志願者を引き連れて旅団長の遺体の奪還を試みた。この時の様子をドグレルは次のように述べている。 “ …彼(旅団指揮官リッペールSS少佐)が斃れた場所の近くの小屋は、涙に暮れた我が兵たちが彼の埋葬を終えるまで頑強に守られていた。敵軍はこの地を奪回したが、ワロン部隊は死んだ指揮官を共産主義者の手に落とさせたくなかった。2月6日に銃弾が突き抜けた左腕から膿が流れているティッセン少尉は、志願者とともに匍匐前進し、敵軍に突撃して小屋を奪還した。そしてリッペール少佐の遺体を掘り起こし、それを運びながら敵の銃火をくぐりぬけてわれわれのところへ帰還した… ” 1944年2月17日、ティッセンSS少尉を含む「ヴァロニェン」旅団の生存者638名は、チェルカースィ=コルスン包囲戦を辛くも生き延びた。その後、ティッセンSS少尉はチェルカースィにおける戦功を認められてSS中尉(SS-Obersturmführer)に昇進し、また、4月1日から2日にかけてシャルルロワ~ブリュッセルで行われた凱旋パレードにおいて旅団の旗手を務めた。
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SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代
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「レオン・ジリス」の記事における「SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代」の解説
1943年9月、負傷から回復したジリスはSS曹長(SS-Oberscharführer)としてSS突撃旅団「ヴァロニェン」第5(対戦車砲)中隊の対戦車砲小隊の指揮を任された。 同年11月、旅団とともにジリスは東部戦線のウクライナへ出陣し、翌1944年2月のチェルカースィ包囲戦では第5中隊第2小隊を指揮してソビエト赤軍の包囲網を突破した。その功績が認められ、ジリスは1944年3月1日付でSS連隊付士官候補生(SS-Standartenoberjunker)へ昇進し、4月20日付でSS少尉(SS-Untersturmführer)へと昇進した。
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SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代
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「アンドレ・レジボ」の記事における「SS突撃旅団「ヴァロニェン」時代」の解説
1943年6月1日、第373ワロン歩兵大隊が武装親衛隊に移籍して旅団規模に拡張し、7月3日にSS突撃旅団「ヴァロニェン」(SS-Sturmbrigade Wallonien)と改称されると、これに伴ってアンドレ・レジボも装親衛隊へ移籍し、SS伍長(SS-Unterscharführer)に任官した。 1943年11月19日から20日、訓練を完了して東部戦線のウクライナ・チェルカースィに鉄道輸送されたSS突撃旅団「ヴァロニェン」(兵力約1,850名)は、翌1944年2月17日までSS「ヴィーキング」師団の一部としてパルチザンやソビエト赤軍と熾烈な戦闘を繰り広げた。 このウクライナ・チェルカースィ戦線でアンドレ・レジボSS伍長はアンリ・デリクスSS中尉(SS-Ostuf. Henri Derriks)が指揮を執る「ヴァロニェン」旅団第2中隊の第4小隊長を務めていたが、第2中隊によるサクレフカ(Sakrewka)攻撃が実施された1944年1月4日に負傷した。 その後、レジボは1944年1月21日付で二級鉄十字章と一般突撃章を授与された。
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