SM206号「舞鶴号」とは? わかりやすく解説

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SM206号「舞鶴号」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:53 UTC 版)

河辺忠夫」の記事における「SM206号「舞鶴号」」の解説

1951年昭和26年佐藤博九大教授前田航研、前田建一田中丸治広滑空士、河辺忠夫滑空士らは西日本航空航会を作り講和条約締結予想しかねてより構想通り複座双胴セコンダリー練習用滑空機設計、製作に取りかかり資金難のなか完成予定半年以上遅れて1952年昭和27年8月前田建一糸島工場完成した1号機はSM206号と名付けられ河辺旧軍元岡飛行場跡でゴム曳航での試験飛行順調に終えたゴム索発航より高度なウインチ発航による耐航試験合格のあと田中丸治広滑空士、河辺忠夫滑空士らは九州各地デモンストレーション飛行行い雷山鏡山でも数時間に渡る飛翔行った昭和27年15日午後福岡県糸島郡長糸村長野峠で初の山岳飛行実施操縦者河辺忠夫滑空滞空時間1630秒戦後最高滑空記録でした。 標高590mの長野山(通称肥前峠)から糸島村蛇石部落道路上着陸直線距離6km、実質飛行距離9kmでの記録だったが夏に藤沢飛行場同じく河辺滑空士が作った7分の記録を抜く戦後最長滑空記録だった。設計佐藤博九大教授聞書、『青山白雲』に望まれていた河辺田中丸操縦士操縦複座のSM206号に同乗され空の散歩楽しまれ記述がある。又初めてとなる河辺操縦飛行機引航による空中列車での九州一周好評の内に成功させた。SM206号は平和の翼として報道され話題となり、夕刊フクニチの名前の公募で「舞鶴号」と名付けられた。前田建一は、舞鶴号の名前が決まったとき、「日野さんとむらい合戦でかったようなもんですなぁ」といっているがこれは1911年明治44年当時日野熊蔵大尉所沢より転属福岡箱崎海岸にあった練兵場日野単葉飛行機舞鶴号)を製作試験飛行をしていた事を言っている。この時の舞鶴号は良く滑走した大空へ舞い上がることは叶わなかった。 SM-206のSM九大教授佐藤博前田航研の前田建一イニシャルから付けられた登録機体番号JA-2006。

※この「SM206号「舞鶴号」」の解説は、「河辺忠夫」の解説の一部です。
「SM206号「舞鶴号」」を含む「河辺忠夫」の記事については、「河辺忠夫」の概要を参照ください。

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