SM206号「舞鶴号」
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1951年(昭和26年)佐藤博九大教授、前田航研、前田建一、田中丸治広滑空士、河辺忠夫滑空士らは西日本航空航会を作り講和条約締結を予想しかねてよりの構想通り複座双胴のセコンダリー練習用滑空機の設計、製作に取りかかり資金難のなか完成予定を半年以上遅れて1952年(昭和27年)8月前田建一の糸島工場で完成した。 1号機はSM206号と名付けられ河辺は旧軍の元岡飛行場跡でゴム索曳航での試験飛行を順調に終えた。ゴム索発航より高度なウインチ発航による耐航試験合格のあと田中丸治広滑空士、河辺忠夫滑空士らは九州各地のデモンストレーション飛行を行い雷山、鏡山でも数時間に渡る飛翔を行った。昭和27年15日午後旧福岡県糸島郡長糸村、長野峠で初の山岳飛行を実施操縦者河辺忠夫滑空士滞空時間16分30秒の戦後最高滑空記録でした。 標高590mの長野山(通称肥前峠)から糸島村の蛇石部落道路上に着陸直線距離6km、実質飛行距離9kmでの記録だったが夏に藤沢飛行場で同じく河辺滑空士が作った7分の記録を抜く戦後最長の滑空記録だった。設計の佐藤博九大教授が聞書、『青山白雲』に望まれていた河辺や田中丸操縦士操縦の複座のSM206号に同乗され空の散歩を楽しまれた記述がある。又初めてとなる河辺操縦で飛行機引航による空中列車での九州一周は好評の内に成功させた。SM206号は平和の翼として報道され話題となり、夕刊フクニチの名前の公募で「舞鶴号」と名付けられた。前田建一は、舞鶴号の名前が決まったとき、「日野さんのとむらい合戦でかったようなもんですなぁ」といっているがこれは1911年(明治44年)当時日野熊蔵大尉が所沢より転属で福岡の箱崎海岸にあった練兵場で日野式単葉飛行機(舞鶴号)を製作試験飛行をしていた事を言っている。この時の舞鶴号は良く滑走したが大空へと舞い上がることは叶わなかった。 SM-206のSMは九大教授の佐藤博と前田航研の前田建一のイニシャルから付けられた登録機体番号JA-2006。
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