S-49の完成
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「S-49 (航空機)」の記事における「S-49の完成」の解説
ソ連から十分な支援が得られるようになったのにも拘らず、ユーゴスラビアは国内の航空産業を強化発展させる努力を継続した。すべての航空部品が国内で供給可能となることが目指された。航空設備の拡充のための新たな製造施設が建設された。1949年より、プルヴァ・ペトレトカ市で航空機の脚部と水素装置の組み立てが始められた。ラコヴィツァの工場は大幅に拡充され、航空機用エンジンの製造を行った。バニャ・ルカの技師たちは、無線器と電子機器の製造を行った。1951年には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルのソコ(Soko)航空機工場での作業が開始された。ソコ航空機工場は、その後航空機分野においてのみならずユーゴスラビアの主要な組立企業のひとつとなった。いくつかの工場からなるこの大規模な組立企業においては、冷房、自動車の伝達装置(トランスミッション)、トラクターなど数多くの製品が生産された。ソコに対する航空機発注は、1952年より始められた。それは、新型戦闘機S-49C(С-49Ц)の主翼と尾翼の組み立てであった。 S-49Aの受領から3年後、改良され全金属製となったS-49Cが完成された。この新型機は、戦闘機としてのみならず、戦闘爆撃機、偵察機としても使用されることが予定された。この機体には、フランス製の小型エンジンHS 12A-17が搭載された。これ以外にも、ドイツ製のDB 605を搭載したS-49B(С-49Б)が開発された。しかし、量産化に当たってはS-49Cが選ばれた。その後数年の間に、112 機のS-49Cが生産された。 量産第2シリーズでは、垂直尾翼の前方にドーサル・フィンが追加され、機体の安定性の向上が図られた。 使用中には、武装の改良も行われた。すなわち、主翼下には無誘導ロケット弾HVARの発射装置と20 mm MG 151/20機関砲または12.7 mm M2機銃のコンテナーが据え付けられた。なお、HVARはアメリカ製、MG 151/20はドイツのマウザー(Mauser)製、M2はコルト[要曖昧さ回避]・ブローニング(Colt Browning)製である。それ以外にも、一部の部隊では2 発の50 kg爆弾を搭載できるよう機体に改修を施した。 ジェット戦闘機の登場により、S-49Cは部隊から押しやられた。早くも1961年には退役し、その稼動期間は10年に満たなかった。現代に残されているのはわずか1 機に過ぎず、その機体(機体番号2400/400、ページ冒頭の写真の機体)はベオグラードの航空博物館に展示されている。
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