PDS・左翼党
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1993年1月31日までPDS党首を務めたが、彼が旧東ドイツの情報機関シュタージ(国家保安省)の非公式協力者 (IM)として働いていたという疑惑が取りざたされ(後述)、1997年には党執行委員から離れた。2000年には党議員団代表から退き、翌2001年のベルリン市議会選挙に出馬して当選、2002年1月に連邦議会議員を辞職。PDSが躍進した結果成立したドイツ社会民主党(SPD)のクラウス・ヴォーヴェライト市長を首班とするとSPD・PDS 連立内閣に、2001年1月17日から経済・労働・婦人担当参事(大臣)として入閣。しかし公務で使った旅客機のマイレージサービスを私有したとして批判され、2002年7月に全ての公務を辞職して弁護士業に復帰した。この年妻アンドレアはPDSを離党している。2004年には心臓と脳の大手術を受けた。 2005年、再び左翼党・PDSの候補として連邦議会選挙に出馬し、第85ベルリン・トレプトウ・ケペニック選挙区でSPD候補を破って当選。この選挙ではSPDから離党したオスカー・ラフォンテーヌが設立した「労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ」(Arbeit & soziale Gerechtigkeit – Die Wahlalternative, WASG)と左翼党・PDS が政党連合を組んで共闘し、得票率8.7%で連立与党の同盟90/緑の党を抜いて第4党に躍進し、54議席を獲得した。12月、ギジはPDS所属のままWASGに加入、やはり逆に左翼党・PDSにも二重加入したラフォンテーヌと共に議員団団長を務める。2007年6月16日に両派は正式に合一して左翼党となった。 2009年ドイツ連邦議会選挙では得票率を増して小選挙区で当選を決めた。10月にラフォンテーヌが議員団長を辞任したため、ギジが単独で議員団長に再選された。2013年ドイツ連邦議会選挙でも当選。ザーラ・ヴァーゲンクネヒト(ラフォンテーヌの妻)が主張した共同代表制復活の提案を却下し、同年10月の党大会で単独代表に選出された。この選挙ではCDU・SPDによる大連立政権が成立したため、ギジは最大野党を率いる野党代表となった。2012年1月、他の左翼党議員と共に連邦憲法擁護庁の監視対象であることが発覚した。すべての議会会派からの批判を受け、2014年に監視は停止され、ケルン行政裁判所の命令によりギジらに関する書類はすべて破棄された。 2015年6月、ギジは党代表に再任される意志がないことを表明し、10月の党大会ではディートマー・バルチュとヴァーゲンクネヒトが共同体表に選出された。2017年ドイツ連邦議会選挙では比例区での重複立候補を避け、小選挙区単独での当選を果たした。
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