CSK・セガ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:50 UTC 版)
大学在学中にアルバイト先で大川功に出会い、その人柄に惚れて、1968年に大川がコンピューター・サービス(のちのCSK)を設立すると同時に入社。CSKにとっては定期採用第一期生の一人となる社員であった。セガがCSK傘下となり、大川がセガ会長に就任すると同時にセガに出向した。その後、いったんCSKに引き上げる。後に再びセガに出向し、1998年に専務取締役・コンシューマ事業統括本部副統括本部長に就任。 「セガなんてだっせーよな」「プレステのほうが面白いよな」というフレーズを使ったセガの自虐的なCMに現役専務として出演し 、一時期は世間で一番知られている専務として注目された。出演したCMが第38回ACC全日本CMフェスティバルの最優秀テレビCM賞を受賞する。湯川専務のパッケージをつける等をしてドリームキャストを売り出す際も表に立って宣伝広告を行った。CM出演に絡めて湯川専務ストラップやドリームキャストCFソングの音楽CDも発売している。なお、専務に就任する以前の1986年にセガの玩具、「ロボピッチャ」のCMや、SG-1000、セガ・マークIIIの周辺機器「テレビおえかき」のCMに出演しており、ドリームキャストシリーズのCMに抜擢されたのも自社のCMの出演経験を買われたのも一因であった[要出典]。 湯川専務の宣伝効果もあってか発売日にはドリームキャストが売り切れるほどだった。しかし、製造トラブルのために出荷台数が予定数を大きく下回り、常務に異動となった。しかし、実際には製造トラブルは生産・出荷担当者の責任であり、流通・ソフト業界担当であった湯川にはあまり関係がなかった。湯川が煽りを受けた形になったのは、セガの顔であった湯川の異動による話題作りであったと思われる[要出典](もともと湯川は、会長の大川の代わりにセガを監督するため、親会社のCSKより派遣されている人材であり、セガ本体の事業の増減にはほとんど責任がない。また湯川はグループ企業数社の役員も兼務しており、専務から常務に異動しても本人の利害にはほとんど関係なかった)。 人事異動後もCM出演時の湯川専務の印象が強く、「湯川元専務」と呼ばれるようになる。人事異動後、CM出演はなくなったがセガの役員として職務に尽力する。1999年にゲームソフト『湯川元専務のお宝さがし』がセガから発売された。
※この「CSK・セガ時代」の解説は、「湯川英一」の解説の一部です。
「CSK・セガ時代」を含む「湯川英一」の記事については、「湯川英一」の概要を参照ください。
- CSKセガ時代のページへのリンク