BT49C
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 16:13 UTC 版)
1981年、前年度まで猛威を振るったグラウンド・エフェクト・カーを規制するため、FISAはスライディングスカートの禁止と最低地上高を60mm以上とするレギュレーション変更を行った。ブラバムはBT49をこれに合わせて改修したBT49Cを開幕戦から投入した。失ったダウンフォースを補うためにフロントウイングが復活し、BT49から多くのパーツをカーボン製に置き換えてさらなる軽量化が図られている。 デザイナーのゴードン・マレーは「走行中に車高を計測することはできない」ことと「走行中の車高変化は規制できない」ことに着目し、ハイドロニューマチック・サスペンションを開発、第2戦ブラジルグランプリから投入した。この装置はシリンダー内に空気とオイルを充填したもので、静止状態では車高が60mm以上あるが、走行中車体にダウンフォースがかかるとオイルがリザーバー側に移動してサスペンションが沈み込み、「本来の」車高に戻る仕組みだった。明らかにレギュレーションに違反する行為だったが、走行中は車高を計測することが不可能なため黙認された。このアイデアにより、60mmルールは事実上骨抜きになった。FIAとFISAは黙認せざるを得ず、他のチームもこれを見て同種のシステムを採用し始めた。アルファロメオなどにいたってはより単純な手動切替え式を採用した。マレーは皮肉を込めて、BT49Cのコクピットに赤いノブの付いたダミーのレバーを取り付けた。 ネルソン・ピケは第3戦アルゼンチングランプリと第4戦サンマリノグランプリで連勝するなど、序盤からチャンピオンシップをリードした。ブラバムはこれを好機と見て、シーズン途中から異例の「予選用シャシー」をピケに用意した。これは軽量化のために燃料タンクを必要最小限の大きさに縮小し、さらにカーボンブレーキを装備していた。ピケはこのマシンもあってしばしば予選で優位に立ち、3度の優勝を含む7回の表彰台を獲得した。最終戦ラスベガスGPはウィリアムズのカルロス・ロイテマンが1ポイントリードした状態で迎えた。このレースでロイテマンはノーポイントに終わり、ピケが5位2ポイントを加算して逆転、自身初のドライバーズチャンピオンに輝いた。この年の主なライバルはウィリアムズだったが、完全なピケ優遇の体制を築いたブラバムに対し、ウィリアムズはカルロス・ロイテマンとアラン・ジョーンズの確執が仇となりドライバーズタイトルを逃した。トータルでピケが50ポイント、チームメイトのヘクトール・レバークは11ポイントでコンストラクターズランキングは2位となった。
※この「BT49C」の解説は、「ブラバム・BT49」の解説の一部です。
「BT49C」を含む「ブラバム・BT49」の記事については、「ブラバム・BT49」の概要を参照ください。
- BT49Cのページへのリンク