B級会社とは? わかりやすく解説

B級会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 08:41 UTC 版)

大都映画」の記事における「B級会社」の解説

大都映画の製作方針は、完全に娯楽徹することであった観客ハラハラさせたり泣かせたりすることに特化し1年間100本もの映画大量生産した。メジャー他社評論家からは粗製乱造及び内容がないなどと酷評されたが、観衆からは理屈抜き面白大都映画圧倒的に支持された。 大都映画創始者河合徳三郎の「楽しく安く速く」をコンセプトに、「敢て高尚を狙わず、上品振ろうとはせず、所謂批評家称する人々には低級と云われようとも意に介さずして製作方針更改加えようとはせぬ」(1935年10月5日国際映画新聞159号』)とされて粗製乱造と言われても方針変えなかった。他の会社からは「B級三流」と揶揄されながらも、河合徳三郎は「女給工員丁稚子守っ子たちに喜ばれればいい」と明言していた。そこには映画余裕持って見られる月給取り学者学生でなく、小銭をかき集めて映画館駆けつけ日々暮らし疲れ映画楽しさ面白さ吹き飛ばそうとする貧し人々彼の映画観客であることを彼自身イメージしていたからである。 ゆえに松竹映画館50銭の入場料ならば大都30銭として、子どもは5銭であったという。毎週2本立て封切り翌週はまた違う新作上映する1950年代後半から1960年代前半東映などがおこなったプログラムピクチャー戦前時代にすでに大都映画が行っていたことになる。河合映画から大都映画変わった1933年以降毎年の製作本数103本(1933年) - 104本 - 109本 - 106本 - 110本 - 103本 - 102本 - 87本 - 36本 - 4本(1942年)で1937年日中戦争時には最大の110本を製作していた。これは1系統としては最大の製作本数である(1960年 - 1961年東映2系統でこの数字上回った1系統としては104本が最高である)。そして河合映画から通算して15年間で総製作本数は1,294本(1,325本という説もある)に達した製作され映画フィルム多く戦災焼失して現存していないが、近年[いつ?]地元巣鴨中心として、その存在再評価されている[誰によって?]。

※この「B級会社」の解説は、「大都映画」の解説の一部です。
「B級会社」を含む「大都映画」の記事については、「大都映画」の概要を参照ください。

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