B級戦犯として刑死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 06:04 UTC 版)
ブーゲンビル島の戦いの間、ブカ地区の日本軍は現地住民の宣撫工作に務めており、地区内の各部落から住民を集めて農業教育を施していた。ところが、1945年(昭和20年)7月に日本軍へ協力していた部落の住民がオーストラリア軍によって拉致される事件が起き、農業教育を受講していた同部落の住民の一部も後を追ってオーストラリア軍側に移動してしまった。加藤は、住民の脱走が続いて機密情報が漏えいしたり工作員として利用されることをおそれ、逃げないで残っていた住民3人を見せしめとして死刑にした。別の部落も一時的に住民が行方不明となったため、やはり教育中だった住民を死刑にした。宣撫工作を担当していた河西大尉が反対したが、加藤は激怒して住民の即時処刑を命じた。 また、加藤には、ブカ島進出直後に、敵対的な住民4人の処刑を命じた疑いもかけられた。 終戦後、加藤は、住民7人の殺害を命じたとの訴因でB級戦犯としてオーストラリア軍により起訴された。加藤は、ラバウルで開かれた軍事法廷で、当該住民が日本軍に属していたから脱走と情報漏えいを防ぐために行われた処刑は正当であり、当時の切迫した戦況では正規の裁判手続きを経ることも不可能であったと無罪を主張した。しかし、オーストラリア軍の裁判官は、当該住民が軍に属していたか否かや処刑の理由の如何に関わらず、適正な裁判手続きを経なかった点で違法を免れないとし、1946年(昭和21年)5月7日に住民6人の殺害につき有罪と認定、死刑判決を下した。同判決は軍上層部にも承認され、加藤は絞首刑となった。49歳没 加藤は妻にあてた遺書で、戦犯裁判は一方的なもので「小生は俯仰天地に恥ぢることなし」であるから、引け目に感じなくてよいと書き残している。部下だった河西大尉も、ただの報復裁判であったと回想している。
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