79年の噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 03:43 UTC 版)
「79年のヴェスヴィオ噴火」も参照 壊滅的なヴェスヴィオ火山の噴火は79年8月24日の午後に起きた。ヴェスヴィオ火山はおよそ300年間活動を停止していたと思われ、もはや火山であるとは一般には認識されていなかったが一部の知識人はそう遠くない昔にヴェスヴィオが噴火していたことを認識していた。 考古学的な発掘と小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた2通の手紙により噴火の経過をたどることができる。 8月27日午後1時頃、ヴェスヴィオ火山から数千メートル上空まで灰と噴石が吹き上がった。噴出物が対流圏と成層圏の間に到達した時の噴煙の上部が平らになったその形をプリニウスはカサマツと形容している。風は南東向きに吹いたため噴出物は主にポンペイとその周りの地域に落下した。ヘルクラネウムはヴェスビオ火山の西にあるので噴火の最初の段階ではあまり被害を受けなかった。ポンペイの家々の屋根が落ちてきた噴出物の重みで潰れたのに対して、ヘルクラネウムには灰が数センチ積もった程度であったが住民の多くはこの段階で逃げ出した。 初期の発掘で僅かな人骨しか発見されなかったため住民のほぼ全てが辛くも避難したものと長い間考えられていた。1982年に発掘が海岸のボートハウスの区域に及ぶとこの見解は改められた。考古学者たちは12のボートハウスで体を寄せ合うように群がる250もの人骨を発見した。 夜の間、柱の様な姿で成層圏にまで達していた噴出物がヴェスヴィオに落下し始めた。火砕流が発生し、400℃のガス、灰、石が入り混じり時速160kmでヘルクラネウムに押し寄せた。午前1時頃火砕流はボートハウスに到達し、そこで助けを待っていた人々は猛烈な熱により瞬時に命を失った。このときの火砕流とそれに続く幾度かの火砕流により噴出物が下から徐々に建物を覆ったために建物は大きく損傷しなかった。 建物とその内部の物が非常に良い状態で保存されたのは以下の要因によると思われる。 風が変わりヘルクラネウムに灰が降下するまでに建物がすでに火砕物に埋もれていたため屋根が潰れなかった。 最初の火砕流の熱が有機物の表面を炭化し水分を抜き去った。 厚く(25メートルに達する)密度の高い凝灰岩がヘルクラネウムを1700年間空気からも遮断した。
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