40代 ─金鈴社の時代
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該博な知識を買われ、大正4年(1915年)から田口掬汀が発刊した美術雑誌『中央美術』の編集同人となり、以後同誌をはじめ他の美術雑誌に健筆を振るう。更に、大正5年(1916年)田口の呼びかけにより、結城素明、平福百穂、鏑木清方、松岡映丘と霊華自身の合わせて5人で金鈴社を結成する。霊華は「この四君はジッと落ち着いて研究の出来る人だ、私もその一人に加えて貰うことは誉れである」として参加を決めたという。「金鈴」の名は霊華の命名により、特に出典元はなく、金の鈴そのものの形や音が何となく良い感じを与え、同人の性質や芸術にも合っているからだと、後に田口は推測している。 金鈴社は7年弱という短い団体だったが、その活動でそれまで一般には殆ど無名だった霊華の名声は世に広まっていく。寡作の霊華としては珍しく毎回出品しているが、遅刻の常習者で、画題は提出しても実際の制作は間に合わなかったり、絵が出来上がるのは展覧会最終日の2日前ということも珍しくなかった。それでも、金鈴社の他の会員が他でも作品を発表しているのに対し、霊華の作品はここでしか観られないため、連日入場料を払ってでも霊華の作品が出品されていないか確認しに訪れるファンもおり、出品作はすぐに買い手がついたという。一方で、為恭顕彰にも努め、美術雑誌にしばしば為恭の画業の意義に触れ、大正11年(1922年)5月には日本橋倶楽部で籾山半三郎や谷森真男らと「岡田為恭追弔展観」を開催し、7月に籾山が施主となり、有志らと為恭六十年忌法要を寛永寺で行った。
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