40代 ─金鈴社の時代とは? わかりやすく解説

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40代 ─金鈴社の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 05:41 UTC 版)

吉川霊華」の記事における「40代 ─金鈴社の時代」の解説

該博な知識買われ大正4年1915年)から田口掬汀発刊した美術雑誌中央美術』の編集同人となり、以後同誌をはじめ他の美術雑誌健筆振るう。更に、大正5年1916年田口呼びかけにより、結城素明平福百穂鏑木清方松岡映丘と霊自身合わせて5人で金鈴社結成する。霊は「この四君ジッと落ち着いて研究出来る人だ、私もその一人加えて貰うことは誉れである」として参加決めたという。「金鈴」の名は霊命名により、特に出典元はなく、金の鈴そのものの形や音が何となく良い感じ与え同人性質芸術にも合っているからだと、後に田口推測している。 金鈴社7年弱という短い団体だったが、その活動それまで一般には殆ど無名だった霊名声世に広まっていく。寡作の霊としては珍しく毎回出品しているが、遅刻常習者で、画題提出して実際制作は間に合わなかったり、絵が出来上がるのは展覧会最終日2日ということ珍しくなかった。それでも、金鈴社の他の会員が他でも作品発表しているのに対し、霊作品はここでしか観られないため、連日入場料払ってでも霊作品出品されていない確認し訪れファンもおり、出品作はすぐに買い手がついたという。一方で、為恭顕彰にも努め美術雑誌にしばしば為恭の画業意義触れ大正11年1922年5月には日本橋倶楽部で籾山半三郎谷森真男らと「岡田為恭追弔展観」を開催し7月に籾山が施主となり、有志らと為恭六十年忌法要寛永寺行った

※この「40代 ─金鈴社の時代」の解説は、「吉川霊華」の解説の一部です。
「40代 ─金鈴社の時代」を含む「吉川霊華」の記事については、「吉川霊華」の概要を参照ください。

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