2010年第12戦サンマリノグランプリとは? わかりやすく解説

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2010年第12戦サンマリノグランプリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 10:05 UTC 版)

富沢祥也」の記事における「2010年第12戦サンマリノグランプリ」の解説

地元日本GP一ヵ月後に控えた9月5日、ミサノで開催され第12戦サンマリノグランプリ予選調子まずまずといったあたりで、トップから0.787秒差の8番グリッドにつける迎えた決勝では抜群スタート決めすぐさま序盤から激し優勝争いを展開。4周目にはトップに立つなど素晴らし走り見せた。 だが4番手を走行していた12周目の第11コーナーで、右コーナーアウト側の縁石に深い角度入り込んだ際、縁石外側人工芝の間でスリップダウン起こし200キロ超えるハイスピードの状態でコース側に転倒する。この時すぐ後ろ走行していたアレックス・デ・アンジェリス富沢身体乗り上げると共に倒れていたマシン激突し、さらに後ろにいたスコット・レディング富沢身体乗り上げ転倒し後方2台を巻き込んだ多重クラッシュとなってしまう。富沢コース上に投げ出されたまま横たわり、すぐにサーキット近郊リッチョーネ市内病院へと搬送されたが、現地時間14時20分(日本時間21時20分)に死亡確認された。享年20(満19歳没) 詳細な死因明らかにされていないが、治療担当した医師記者会見語ったところによれば、転倒直後にデ・アンジェリスとレディングマシン高速衝突したことによる大動脈破裂直接死因見られている。サーキット内メディカルセンター運ばれ時点心臓血腫確認されたほか、病院搬送後に心筋ダメージ負っていることも確認されたという。また遺体確認した関係者によれば頭部への外傷はなかったものの首・肩・腰・大腿骨などを骨折していた模様イコールコンディションに近い新設クラスでの初ポールポジション初優勝才能開花させ始めた矢先出来事であった。またこの前日にはチームとの契約延長合意しMoto2クラス翌年継続参戦することが内定したばかりだった。 Moto2クラスでは富沢使用していたゼッケン48永久欠番にすることを決定し富沢出場するはずだった日本グランプリ開催中10月3日には現地追悼セレモニーが行なわれ、富沢両親ゼッケン48のメモリアルプレートや、この年のチャンピオン・トニ・エリアスの発案でベストプライベーター賞にあたるミシェル・メトロー・トロフィーなどが贈呈された。 ポイントランキングでは、それまで獲得していた82ポイント適用され最終的にランキング13となった

※この「2010年第12戦サンマリノグランプリ」の解説は、「富沢祥也」の解説の一部です。
「2010年第12戦サンマリノグランプリ」を含む「富沢祥也」の記事については、「富沢祥也」の概要を参照ください。

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