2010年第12戦サンマリノグランプリ
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「富沢祥也」の記事における「2010年第12戦サンマリノグランプリ」の解説
地元日本GPを一ヵ月後に控えた9月5日、ミサノで開催された第12戦サンマリノグランプリ、予選の調子はまずまずといったあたりで、トップから0.787秒差の8番グリッドにつける。迎えた決勝では抜群のスタートを決め、すぐさま序盤から激しい優勝争いを展開。4周目にはトップに立つなど素晴らしい走りを見せた。 だが4番手を走行していた12周目の第11コーナーで、右コーナーアウト側の縁石に深い角度で入り込んだ際、縁石外側と人工芝の間でスリップダウンを起こし、200キロを超えるハイスピードの状態でコース側に転倒する。この時すぐ後ろを走行していたアレックス・デ・アンジェリスが富沢の身体に乗り上げると共に倒れていたマシンと激突し、さらに後ろにいたスコット・レディングも富沢の身体に乗り上げ転倒し、後方2台を巻き込んだ多重クラッシュとなってしまう。富沢はコース上に投げ出されたまま横たわり、すぐにサーキット近郊のリッチョーネ市内の病院へと搬送されたが、現地時間14時20分(日本時間21時20分)に死亡が確認された。享年20(満19歳没) 詳細な死因は明らかにされていないが、治療を担当した医師が記者会見で語ったところによれば、転倒直後にデ・アンジェリスとレディングのマシンが高速で衝突したことによる大動脈破裂が直接の死因と見られている。サーキット内のメディカルセンターに運ばれた時点で心臓に血腫が確認されたほか、病院搬送後に心筋にダメージを負っていることも確認されたという。また遺体を確認した関係者によれば、頭部への外傷はなかったものの首・肩・腰・大腿骨などを骨折していた模様。 イコールコンディションに近い新設クラスでの初ポールポジション、初優勝と才能を開花させ始めた矢先の出来事であった。またこの前日にはチームとの契約延長に合意し、Moto2クラスに翌年も継続参戦することが内定したばかりだった。 Moto2クラスでは富沢が使用していたゼッケン48を永久欠番にすることを決定し、富沢が出場するはずだった日本グランプリ開催中の10月3日には現地で追悼セレモニーが行なわれ、富沢の両親にゼッケン48のメモリアルプレートや、この年のチャンピオン・トニ・エリアスの発案でベストプライベーター賞にあたるミシェル・メトロー・トロフィーなどが贈呈された。 ポイントランキングでは、それまでに獲得していた82ポイントが適用され、最終的にランキング13位となった。
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